ベトナムの友人、ファム・デュク・ビン君の『ベトナムから見た日本』の講演会。
周到な準備をした上に、実に明晰な日本語によるプレゼンテーションであった。ビン君は若輩わずか25歳。すでにフランスで修士号を取ってダナン大学文学部講師というエリートであるけれど、何より、いささかの気負いもなく、一国を代表して21世紀の越日関係を視野に収めた堂々たるスピーチを日本語でこなし、質疑応答に適切に答えるその成熟度にウチダは感動した。
いまの日本の25歳の青年のうちに、ベトナムに単身赴いて現地の言語で越日関係の過去と未来を論じて私や難波江さんのような劫を経た「おじさん」を含む聴衆を感動させることのできる者が何人いるだろう。
ビン君とはじめて会ったのは96年のブザンソンである。そのときビン君は二十歳で、私は四十五歳であった。親子ほど年の違う私たちが「友人」になったのは、彼がそのときすでに堂々たる紳士だったからである。
ビン君はおそらく例外的人物ではない。
ベトナムという国は、そのような堂々たる青年を組織的に生み出すような「成熟のためのシステム」を有しており、わが国にはそのようなシステムがない、ということが教育者として私には痛みとして感じられる。
講演の準備のあいまに二人で「ビゴの店」でお茶を呑んだときに、こんな話を聞いた。
アメリカのベトナム従軍兵士たちは深いトラウマをかかえて70年代以降を生きた。
ティム・オブライエンの小説に描かれたような兵士たちは自分たちがベトナムで犯した破壊と暴虐の記憶をかかえこんで、何十年にわたる不眠の夜を過ごしてきた。その「ベテラン」たちが90年代になって続々とベトナムのかつての戦地を訪れるようになった。
彼らがそこで見出したのは破壊した原野が青々とした水田になり、焼き尽くされた村落が都会となり、虐殺した人々の生き残りが笑顔で彼らを歓待する風景であった。その光景に触れて、ベトナム帰還兵たちは「救い」を得たという。
もちろん彼らの犯した罪には弁護の余地がない。
けれども、弁護の余地のない罪をかかえて、どのような罵倒をも甘受する覚悟でベトナムの地を訪れた「ベテラン」たちが、暖かいベトナムの農民の笑顔に触れたとき、その心に兆したであろう深い悔悟と感謝の気持を想像することはできる。
おそらく、多くの旧兵士たちは、膝を屈して、熱い涙をこぼしたであろうと思う。
「ごめんなさい」という言葉が、30年前には決して口にすることができなかった言葉が、彼らの口から洩れただろうと思う。
謝って済まないことがある。ベトナムにおける米軍の破壊は謝って済むものではない。けれどもビン君はベトナムの人々はアメリカ人を「許す」と断言してくれた。
過去は過去、現在は現在、未来は未来であると言ってくれた。
アメリカ人は多くを破壊した。当時のベトナム国民の10%を殺戮した。
「でも、もうすんだことだから、いいよ」とビン君は言う。「これから仲良くしましょう」
あるいはビン君の意見は、ベトナム人の中では少数意見なのかも知れない。けれども、ベトナムの戦後25年の歴史は、「フランスも日本もアメリカも中国も私たちの国土を蹂躙したけれど、それはもう済んだことです。これからは仲良くしましょう」という言葉を微笑みながら語れる一人の青年を生み出すような厚みを持っていたのである。
その一事をもって、私はベトナムという国に対して、その国の成熟度に対して、深い敬意を抱く。
一人の国民は、その国を代表する。
その国を代表して、他国民を糾弾する権利があり、他国民を許す権利があり、他国民の前にうなだれる権利がある。私は国民国家というものは、そのような一人の国民の「代表権」の幻想の上においてのみはじめて健全に機能すると考えている。(そのことについては、すでに何度か書いた。)
私は日本人を代表して、日本がベトナムに対して犯した罪過についてビン君に謝罪し、ビン君はベトナム人を代表して、それに微笑みをもって応えてくれた。
そんな権利はウチダにはないぞ、という人がいるかもしれない。ビン君にもそんな権利はないのかもしれない。
けれども、顔と顔を向き合わせたこのような水準で、「ごめんね」「まあ、いいですよ」という言葉が交わされることを無数に積み重ねることによってしか国民国家のあいだのコミュニケーションは構築されてゆかないのではないかと私は思う。
今日の講演を通じて私はいろいろなことを考えた。
ベトナムは21世紀の日本にとって大事なアジアの盟友である。
日本とベトナムのあいだには深い友好と信頼の関係が築かれるべきであると思う。
私はベトナムの人はビン君しか知らない。
でも私がビン君に感じる敬意は、ビン君のような堂々たる青年紳士を生み出したベトナムの固有の知的・文化的風土に対する敬意に直接つながっている。
(2001-10-15 00:00)