10月14日

2001-10-14 dimanche

ついに節を屈して携帯電話を購入してしまった。
私は人も知る「電話嫌い」であり、私が電話に出るときのあまりの不機嫌な声に傷ついて深いトラウマを抱えた人は十指に余る。だから友人のほとんどは私には急用があっても電話をしてこない。(メールまたはファックスまたは委細面談)
おかげで月の電話料金は(るんがいなくなってからはずっと)基本料金である。
ところが、最近の人々はみんな携帯というものを所有しており、それで連絡をとりあっている。取り合うのは先方のご自由であるが、所有者が増えすぎたために、「携帯をもっていることを前提として」社会システムが構築されるにいたって私のような非所持者ははなはだ迷惑を蒙るようになってきた。

先般、知人と芦屋駅「のあたり」で待ち合わせした。芦屋駅「のあたり」に着いたら、先方の携帯に連絡を入れて、それからランデブーポイントを特定するという段取りであった。芦屋駅「のあたり」に約定の時刻に到着して、「さて」と公衆電話を探したが、公衆電話なるものがかつてあった場所に存在しない。
あちらに走り、こちらに駆け寄るのだが、いっかな公衆電話に出会えない。私は人も知る「パンクチュアル」男であって、待ち合わせの時刻に遅刻するということは私の場合あってはならぬことである。だが、公衆電話を探して右往左往しているうちに時は刻々と定刻を過ぎようとしている。わわわ。
ようやくビルの中の一台の公衆電話を探し当て、先方に電話をして「いまラポルテ本館、本屋の横の公衆電話ですう」と息も絶え絶えに告げたら、先方はなんとその本屋で電話を待ちつつ気楽に立ち読みしていて、「はいほー」と電話口の私の背中を叩いたのであった。

悔しい。
待ち合わせという同一目的を達成するために、私は何百メートルも痛む膝をひきずって走り回り、そのあいだ、先方は楽しく立ち読みをしていたのである。
理不尽である。

それもこれも私が携帯電話所持をベースとする社会構造のシフトにキャッチアップできないがために起こったことである。
こういう場合、ふつうの「おじさん」は「公衆電話を勝手に撤去するなバカヤロ」的な退行的リアクションを取るのであるが、私はそういう「JRと呼ぶな省線と呼べ」的なためにする懐古趣味は持ち合わせていない。
だが、「悔しい」ことにはこだわるタイプである。
悔しい思いを二度するのはいやである。

そのままだだだと六甲道のセイデンに駆け込んで、お店の気弱そうなお兄ちゃんをつかまえて「ただちに私のための携帯をセレクトするように」と厳命したのである。
お兄ちゃんはいろいろな機種を示しつつ、私には理解できないなんたらかんたらのサービスが蜂の頭というようなことを説明するので、「私は持ち運びのできる電話が欲しいのである。ザッツオール」と口を塞ぎ、いちばん手元にあった機種を指さしてこれをただちに梱包するように厳命したのである。
しかるに私が携帯を鞄に入れて持ち帰ろうとすると、くだんの店員が私の袖をつかんで「持って帰っちゃだめです」と理不尽なことを言う。
ひとが金を出して買ったモノを持ち帰ることのどこが悪い、と私は理路整然と反論を試みたのであるが、携帯とは言い条、どこぞに接続して「開通式」のようなものをしておかないと電話としては使えないのだそうである。なるほど、言われればもっともである。
仕方なくとなりのツタヤで30分ほど暇をつぶしたのち、すばやく家に持ち帰る。
3センチほどのマニュアルがついているが、もちろん私は重度の「マニュアル失読症」であるので、そのようなものは読まない。そこらへんのボタンをおしたり、引いたりしているうちに全体の構造はおのずと理解された。なるほど、電話だけでなく、メールを発信したり、インターネットに接続したりもできるし・・・なんと国語辞典としても使えるじゃないの。おおおお、これは便利だ。

というわけで本日はウチダの携帯事始め4日目である。
ただし、電話番号とメールアドレスは「身内」にしか教えないし、自分で使うとき以外は電源を切っているので、携帯を持ったからといって、私が捕捉しやすくなったということはないのである。