10月13日

2001-10-13 samedi

昨日は大学教員研修会。自己評価活動の一環として98年から始まって、今年で4回目。
私は自己評価委員長なので、自動的に教員研修会の実行委員長というものになり、会のプログラムを考えたり、講演の講師を探したり、全体会議の議長をしたり・・・といろいろと用事が多い。
これが終わって、今年後期の大仕事のうちの一つがまず片づいたことになる。ほっ。
今回の研修会は参加者も多く、講演の楠原彰先生の話もまことにインスパイアリングであったし、分科会での討議も盛り上がったし、全体会議での審議採決も予想以上に順調に行き、おかげで懇親会のビールも二次会の「マルコ・ポーロ」のワインも美味だった。
楠原先生、原田学長をはじめご協力をたまわりました関係者のみなさまに心より感謝致します。ありがとうございました。

楠原彰先生は教育人類学の碩学であるが、知る人ぞ知る日本におけるFD活動の草分け的存在である。その話は実に含蓄深いものであった。
FDというのをご存じない方もおられであろうから、簡単にご説明しておこう。
FDとは Faculty Development すなわち「大学教授団の資質開発」のことである。
大学の先生というのは「教員免状」をもたない。
小中高の先生は教育学の基礎を学び、教育実習を経験した上でなければ教壇には立てないが、大学の教師は論文の出来だけで採用されて、そのまま教壇に立たされるから、教育スキルを組織的に開発された経験がない。だから発声とか板書というような最低レヴェルにおいてさえ教育スキルの標準をクリアできない先生がいる。
教授たちの教育スキルを開発する組織的訓練の場をどのように保障するか、これが大学教育がかかえている第一の問題である。

第二の問題は大学の「大衆化」である。
都市部の大学進学率はとっくに50%を超えている。
二人に一人が大学に行く以上、大学はもはやエリート養成の場でも、高度専門職の養成の場でもない。ふつうの、そこらのにーちゃん、ねーちゃんが「ハナコも行くし、タローもいくから、おいらも行くべよ」という程度のモチベーションでやってくる。
そういう人たちの知的ニーズに答える教育サービスを提供しなければ、彼らだって教室では私語したり歩き回ったり携帯でメールを打ったりしていないと間が持たない。
そうしてほしくなかったら、学生たちが充分な関心と興味をもって臨める授業を行う他ない。そのためには、学生の知的情緒的な「成熟度」(というより「未成熟度」だな)を正確に把握した上で、その学生たちが「さしあたりもっとも必要としている知的技術と学術情報」とは何かについて真剣に考慮しなければならない。
ことは単にOHPやAV資料やコンピュータを駆使したらどうこうなるという水準の問題ではない。もっとデリケートで人間的な問題だ。学生と教師、学生と学生のあいだにインタラクティヴで暖かいコミュニケーションが保障された「学習の場」の立ち上げがなされなければならない。
そのためには、どうすればよいのか。それが第二の問題である。

FDとはこの二つの問題に対処するために提起された。
FDには私見によれば矛盾する二つのモメントが含まれている。
ひとつは「蛸壺」にこもって大学の社会的機能の変化にも学生の知的成熟度の変化にも気づかないで十年一日の授業をしている「個性的な教師」たちをいちど強引に日の当たるところにひきずりだして、現況についての了解を共有していただく、という仕事である。
ここでいう「現況」とは単に大学の大衆化というような客観的現実のみならず、そのような現実に対応できていない教員ご本人の教育能力の「欠如」という現実をも含んでいる。
教員たちを「グローバル・スタンダード」において「査定」し、教師としてのクオリティがどの程度のものなのか、教育マーケットにおける彼ら一人一人の流通価値がどの程度のものなのかを知らしめること、これがFDのとっかかりである。
場合によっては市場価値の低い教師には研究費の削減、降格、減俸、免職といったペナルティが科されることもあるだろう。
いまの日本の大学では一度専任教員になってしまったものは、どれほど研究教育実績が貧弱でも停年まで身分保障されている。これが大学教員のモラル・ハザードの原因であることは誰にでも分かる。
80年代の文部省調査によれば、過去5年間に一本の学術論文も書いていない大学教員は全体の25%に及んでいた。(いまはもっとひどいことになっているかもしれない。)研究をしない教員は別に学生の教育に熱心なわけではない。たいていは単にだらけているだけである。
しかし、教員を査定するだけでは、単に大学に市場原理を導入した、というだけのことで、あまり気分がよろしくない。
大学がまるごと市場原理に呑み込まれて、あらゆる教育研究活動がデジタルに数値化され、活動の一つ一つに値札がつくというのは、考えてみるとずいぶんストレスフルな職場環境だ。そういう場が独創的な研究や暖かい人間的交流にとって有利な環境だとは思えない。私だって、そんなところではあまり仕事をしたくない。

ここにFDの第二の仕事がある。
すなわち、斉一的な規格化・数値化に抗して、規格にはずれ、数値化になじまない生身の人間の深みや重みを擁護してゆくこと、斉一的な査定になじまない真にオリジナルなものの存在権を保障すること、これもまたFDの大事な仕事なのである。
教員の活動を網羅的に規格化・数値化することと同時に、規格化・数値化になじまない「人間的価値」を徹底的に擁護すること、その二つの矛盾するみぶりを同時に行うこと、そこにFDの妙諦がある。またこの二つは同時に行われなければ意味がないのである。

規格化・数値化を回避しつづけて、「査定されない特権」に安住して大学教員のモラルハザードは進行している。だから査定は必要なのだ。
だが査定するだけでは大学という空間が持っているある種の「逃れの町」としての「いいかげんさ」は圧殺される。だから、規格化の試練を経て、なお生き延びるだけパワフルな「非規格性」は断固として擁護されなければならない。

楠原先生は、FDとはこの矛盾した二つのことを同時に遂行することである、という卓見を語っていた。
これは先夜甲野善紀先生が語っていた「『あちらが立てばこちらが立たず』というのが通常の論理だが、『術』というのは、ある限定的な条件では『あちらもこちらも立つ』ということである」というお話と深いところで通じている。
逆説的なことだが、「規格化・数値化になじまない真に独創的な仕事」を際立たせるためには、規格化・数値化のプレッシャーをかけて、そこに厳しいフリクションが生じさせることが必要だ。
小田嶋隆が言うように、個性とは「個性的な子どもを育てましょう」などというふにゃらけた環境で育つものではなく、個性をあたまごなしに圧殺する環境にあって、それにもかかわらず、どうしても際立ってしまうというかたちで発現するものなのである。個性がつぶされる環境で簡単につぶされるような個性はもとから個性と呼ぶに値しない。
第三次自己評価委員会はそういうわけで、真に個性的な教育研究活動を断固擁護するために、とりあえずデジタル路線を突っ走る予定である。教員諸氏はさぞやご不満であろうが、堪忍してね。