10月10日

2001-10-10 mercredi

二月ぶりの下川先生のお稽古。
声ががらがらなので(合宿で気合いを出しすぎたせい)謡はぼろぼろ。仕舞の方も二ヶ月ぶりなので、全部忘れてしまっていて、先生にこってり絞られた。
でも能のヴァイブレーションで身体がぶるぶるしてよい気持である。

大学に行ってビンくんの「ベトナムから見た日本」のポスターをあちこちに貼る。
なかなか見られない貴重な講演会なんだから、みんな来てね。

龍谷大学の玉本くんという博士課程の院生さんがレヴィナスについてお話を聞きたいといってやってくる。白面のさわやか青年であるが、いきなり、レヴィナスのいう「他者」というのはどこまでの範囲を含むのでしょうか、という本質的な問いを振られる。
なるほど、人間性というものをあらかじめ定立された「実体」として考えると、「人間だか人間でないんだか、よくわからない境界事例」に対する構えが決まらない。
玉本君は「例えば遺伝子操作で生まれた、手が三本、肌が鮫肌みたいな人間は『他者』として認知可能なのでしょうか?」という過激な質問をする。
過激な質問には、さらに途方もない答を以て応じる、というのが応答の極意である。

「ま、とりあえず『エイリアン』と『霊』は『他者』に入るわな」

レヴィナス先生の教えによれば、人間性の定義とは、「他者とのコミュニケーションを媒介にして、主体性を基礎づけるもの」である。この定義を逆から読めば、「コミュニケーションを介して私の主体性を基礎づけてくれるもの」はとりあえず「他者」と呼んでもいいはずである。
言うと私の学者生命を失う可能性があるので(「失う」ほどの学者生命が私にあったのかという問題はさておき)業界内的には秘密にしているのであるが、私は1980年くらいに「地球外生命体」とのコンタクトをしたことがあり、1992年には「猫の霊」に憑依されたことがある。
そのときに考えたのは、「こういうのも『あり』」ということを前提にして「私の生き方」というものを設定しておかないと、ただ「ぶったまげる」か、「これは夢だ」と無視するかどちらかで、現に起きていることに対してクールかつリアルな態度のとりようがない、ということであった。
「クールかつリアルな態度」というのはさしあたり「ハイホー」というような弱々しい呼びかけにすぎず、それに先方が好意的なご返事をすぐに下さるというものでもないが、とりあえず私なりに「コミュニケーションの回路は立ち上げた」わけである。
ヘーゲルもラカンもレヴィナスも、「自己は非-自己を経由して自己を根拠づける」という点については合意形成できているわけで、相手が「エイリアン」であろうと「猫の霊」であろうと、非-自己である「それ」を経由して、自己同一性が確定できる存在であれば、それは「他者」と呼んで構わないと私は思う。
現に「彼ら」との遭遇によって、私は「多少のことでは動じない」人間に自己形成を遂げたわけであるから、「彼ら」が私の主体性の基礎づけに深く与ったことは間違いない。
私の主体性を基礎づけるものは定義上「他者」である。
いかがであろうか。
ともあれ、若い研究者とお話しするのは楽しい。

というようなことを話したあと、朝日カルチャーセンターの甲野善紀先生の講演を聞きに梅田へ行く。甲野先生は12月に本学で講演会と稽古会をしてくださるので、そのご挨拶をかねてうかがったのである。
講演は実に面白かった。私は笑いっぱなし。
面白かった話題を二つだけご紹介しよう。

(1)
先生は街でときどき酔漢にからまれる。(甲野先生は和服で日本刀を下げて街を歩いているから、そういうこともあるのである。)そういうときは喧嘩してもはじまらないし、無視してもますますしつこくからんでくるので、いきなり「お母さんはお元気ですか?」と笑いかけて「躱す」のだそうである。人間は「意味が明瞭であり、フレンドリーであり、かつ文脈が理解不能の語りかけ」に接すると呆然として何もできなくなるそうである。なるほどー。

(2)
「爆弾テロのようなものにたいしてどうやって身を守ったらよいのでしょうか」という困った質問に、先生は「三脈って知ってます?」と答えた。三脈というのは、頸動脈の両側と手首の三ヶ所の脈のことであるが、これは当然にも「ドックン、ドックン」と同一のリズムで脈動している。ところが、危険なことが起こる前にはこのリズムが狂って頸動脈と手首の脈動が「ずれる」のだそうである。昔の人はよくこれをやっていて、三脈に狂いが生じると、「とりあえずその場から逃げる」。先生が紹介していた事例では、朝廷から江戸に行く途中の公家がある陣屋に宿泊して、いつもの習慣で自分の三脈を見たらずれている。同行の随臣たちの三脈も見てみると全員ずれている。「すわこそ」ととるものもとりあえず陣屋を逃れ出ると、そのとたんに裏山が崩れて陣屋は壊滅。もう一つは、戦中の東京で、防空壕の中である人が三脈を見たらずれている。「ここは危ないから出ろ」と言ったが、聞く人がいない。とりあえず二、三人が半信半疑で防空壕を出たら、そのあと焼夷弾が入り口に落下して、全員蒸し焼き。甲野先生自身も一度三脈がずれたことがあり、その日のスケジュールを全部キャンセルして家でじっとしていたそうである。「脈がずれると、すごく気持が悪いです。」

その他にもいろいろ深い話、面白い話が満載であったのだが、今度たっぷり聴けるから、お楽しみに。

講演のあとにご挨拶にいったら、いきなりその場で「ちょっとやってみます?」と言われたので、これ幸いとお手合わせを願う。
「支点を消して動く」という理屈は充分勉強しているので、「来るな」と思っているのだが、どうしても「起こり」が取れない。
甲野先生が動く瞬間だけ現実感覚が微妙にずれて、一瞬「記憶喪失」になって「あれ? おれはこんなところで何してるんだろ?」と頭が白くなったときに、間合いが切られて体軸が崩されている。映画のフィルムの1コマだけが抜けたような感じである。
すっかり面白くなって、言われるままに入身投げ、小手返し、三教、一教といろいろかけたりかけられたりしてみたが、いつも同じで「1コマ抜ける」。かなりゆっくり突かれても、起こりのない中段突きがどうしてもかわせない。
ビデオで見るだけでは分からなかったが、なるほど「こういう感じなのね」と深く納得。
実に愉快な一夕でありました。

甲野善紀先生の講演会は12月7日、午後4時半から6時半まで本学であります。会場が決定したらこのホームページで詳細を告知します。学外の方もどうぞお越し下さい。