10月3日

2001-10-03 mercredi

京阪神エルマガジン社の江さんと、お友だちの橘さん(Bar Jacques Mayol ご主人)がおみやげを持って研究室に「遊びに」来た。
仕事の話かと思っていたら、(それもあったけれど)メインは『ためらいの倫理学』が面白かったので、それをわざわざ伝えに来てくれたのである。
若い女の子が「私、先生のファンなんですう」とか甘ったらしい声で言うのは珍しくもない風景だが、髭面のお兄さんが「や、先生の前なんで、あがっちゃっいました」と汗をかく図というのはウチダもびっくり初体験である。
朝日新聞に「30代を中心にじわじわと売れている」という記事があったが、あれは内浦さんや増田さんのことを念頭に、私が主観的願望を語ったにすぎないのである。
ところが、強く念じたせいか、願望が現実となり、実際に30代の「おじさん/お兄さん」を中心に口コミでちょっとずつ売れているらしい。
江さんが友人からのお手紙というのを見せてくれたが、そこに私の文体を評して「河原でアイスをなめなめ兄ちゃんが語っているような口調」という一行があり、いたく胸を打たれた。
いいなあ、「河原でアイス」というのが。
お二人ともずいぶん熱心に『ため倫』を読み通しておられたが、意外にも「戦争論の構造」と「ためらいの倫理学」という二編の学術論文がいちばん面白かったという。
「戦争論」は大学の紀要に、「ためらい」は『カミュ研究』という学会誌に発表したもので、いずれも発表当時はほとんど反響がなかったものである。
ふーむ。
では、これまで学術誌に発表してまったく反響がなく、そのまま打ち捨てられた私の過去の学術論文も、一般読者が読んだら「河原でアイス」的に面白いということもありえない話ではない。
そういえば「ブランショ論」や「モレス侯爵」や「ドリュモン」の話も、読み返してみるとなかなか面白い。(その当時のキャッチコピーは「おもしろくってためになる思想史講談」というのであった。手本にしていたのは大佛次郎。)
よし、今度どこかの出版社から仕事のオッファーがあったら、これを押し付けよう。

ためらいの倫理学

江さんから『ミーツ』誌で来年から連載をというお話があったので、「わんわん」と食いつく。
ただし「身辺雑記」ではなく、江さんたちが持ち込んでくる「何なんでしょ、これは?」的な論件について、私が「ふむふむ、お若い衆は知らんことじゃろうがのう。ま、爺が答えて進ぜよう」と一刀両断にするという「ゴルディオンの結び目」(というよりむしろ「千早ふる」)のような企画であるらしい。(よくわかんないけど)
ご存じのとおり、私の特技は「千早ふる」のご隠居の芸である。
つまり、熊さんが「ご隠居さん、よくわかんねーことがあんだけど、教えてくれませんか」とやってくる。ご隠居さんだって知りゃしない。でも、いちおう体面というものがあるから、知ったかぶりをする。
その、なんだな。竜田川というのは、相撲だよ。むかしの。大関までなった。
これがね、相撲一途に精進して。煙草なんて吸いやしないよ。それがだ。ある日、ご贔屓に連れられて、吉原あ行ったね。その敵娼というのがお職をはってた千早太夫・・・
牛が涎をくるように、ずるずるとどこまでもでたらめを言い募り、最後に「『とは』は千早の本名」で話の帳尻を合わせる、このご隠居の芸こそ、実は私のもっとも得意とするところである。
江さんが私のその隠れた天分に着目されたのであれば、けだし具眼の士と言わねばならぬ。

テロ事件とアフガン問題でいろいろな人がメディアで発言しているが、どれを読んでもいまひとつぴんとこない。
今日の朝日新聞に漫画家の弘兼憲史が軍隊の保有を認めるように憲法を改正すべきだという議論をしていた。議論自体には何の新味もないのだが、ちょっとひっかかるところがあった。
最後のパラグラフで弘兼はこう述べている。

「米国に協力したら日本もテロ集団に狙われる。だから協力はやめようという考え方がある。そういう考え方だけは避けるべきだ。自分の国だけが助かればいい、という発想法は卑怯である。」

このロジックに「ふーんそうか」とうなずいてしまう人もいるかもしれないが、ちょっと待って欲しい。
「米国に協力したら日本もテロ集団に狙われる。だから協力はやめよう」という発想は、「あり」である。とりあえずの国際関係論的文脈では物議をかもす発想だろうが、長い目で人間社会をみれば、むしろ「正しい」選択であると私は思う。
なぜか。
ちょっと生物学の話に寄り道してみよう。

なぜ生物にはこれほど多くの「種」があるのか、という生命の本質について考えた生物学者はこれを「エコロジカル・ニッチ」つまり「生態学的な棲み分け」という概念で説明しようとした。
例えば、アフリカのサバンナにはウマとシマウマがいる。ウマとシマウマは生態系における地位が微妙に違う。行動パターンもちょっと違うし、食物の嗜好もちょっと違う。
ここに、ウマだけが好んで食べる草から罹患する伝染病があったとする。そのせいである地域のウマが全滅してしまった。
一方、シマウマはその草を食べなかった。「食べてもいいけど、あんま好きじゃないのね」というわけで罹患をまぬかれたのである。
さて、ライオンのような肉食獣にしてみたら、「今日の晩御飯はウマかシマウマか」の違いは「今日の晩御飯はラーメンかチャーシュー麺か」くらいの違いしかない。だからウマが腹下しで全滅してもシマウマがいればご飯には事欠かず、とりあえず生態系はバランスを維持することができるのである。
生物学者は種の多様性の根拠を、「生命システムでは、似たような機能を果たすファクターの性質や行動にはある程度のばらつきがあったほうが、システム・ダウンのリスクを回避する可能性が高い」という事実のうちに見ている。

同じ話を国際社会に当てはめてみよう。
なぜ、全世界的な規模のグローバリゼーションの圧力にもかかわらず、これほど多くの国民国家や種族や宗教共同体が地球上にはあふれかえり、それぞれの差異を言い立てているのか?
それは「エコロジカル・ニッチの多様性」が人類の存続にとって必須である、ということを人々がどこか身体の深いところで直観しているからである。
ひとびとが世界共通語を語り、世界共通普遍宗教に帰依し、世界共通法を遵守するようになったら、地球は平和で安定した状態になるだろうか。
もちろんならない。むしろ、世界システムの安定性と永続性は危殆に瀕することになる。
システム全体が均質化し、構成要素がすべてシミラーになるというのは、シマウマにむかって「おまえだけ縞模様なのは不自然だからよ、みんなと同じ茶色の無地になれよ」と言うのと同じである。
そうなると、ライオンの食べ物が「ウマだけ」になり、ウマだけがかかる伝染病のウイルスによってサバンナの生態系は致命的に破壊される恐れがある。
「ウマ」の仲間に、そのウイルスが跳梁跋扈する場所に「なんとなく好きじゃないんだよね」と言って寄りつかない「シマウマ」がいることで、システムの危険分散は成り立っている。
生物界では、そういうふうに「ばらけている」ことがシステム全体の安定には必要なのである。
すぐれた国際感覚をもつ政治家や外交官はそのことを直観的に知っている。
だから、ある外交的な危険については(例えば、でたらめな行動を示すある国民国家=ウイルスに対しては)諸国が同盟国から仮想敵国まで、微妙なグラデーションを示してずらりと並んで見せることがリスク分散上効果的だと考えるのである。
それシステムが生き延びるための知恵である。
覚えておられるだろうが、中東和平にはさまざまな調停役が出現したが、記憶に残る功績の一つは北欧の一外交官によって担われた。それはこの外交官個人の能力のみに帰せられるべきではないだろう。そのときにその北欧の一国が、国際関係論的な「エコロジカル・ニッチ」の中で、「たまたま」調停役としていちばん適切なポジション―イスラエルとパレスチナのあいだの「どこらへん」か―にいたことが調停の有効性に深く与っている。

さて、話をもどすけれど、「自分の国だけが助かればいい」というのは、行動の水準では要するに「自分の国は他の国とは違う行動をとる」ということである。
「ゴジラが神戸に上陸」したと想定してみよう。
みんなが大阪方面に2号線を走って逃げるときに、「自分だけ助かろう」と思ったやつが「こういうときはね、灯台もと暗しといって、ゴジラの足下が安全なんだよ」と須磨海岸のゴジラにむかって突進したとする。
こういう人間は必ずいる。
そういう人間がいてもいいのである。むしろ必要なのだと私は思う。(ふつうはこいつがまっさきに踏みつぶされてしまうんだけど、ゴジラだって気が変わることもある。)
「自分の国だけが助かればいい、という発想は卑怯である」という弘兼の発言は、要するに、みんながゴジラを避けて大阪に逃げるときに、いっしょに大阪方面に逃げないやつは卑怯だ、と言っているのと同じである。ゴジラが「おお、これは束になっていて、つぶしやすいわ」と二号線をどかどか驀進した場合には、「仕方がない。いっしょに踏みつぶされるのが名誉ある死に方であるから、いさぎよく死のう」と弘兼は言っているのである。
これはなかなか男らしい考え方であるとも言える。
これを国際関係論的文脈で言い換えると、弘兼は「日本はアメリカといっしょに生き、いっしょに死ぬ」べきであり、それが国民国家としての「名誉である」と言っているのである。
アメリカといっしょに生き、いっしょに死ぬべきだと弘兼が思うなら、いちばん論理的な対応は「日本はアメリカの51番目の州になろう」と提言することだろう。
それはそれで一つの見識だし、論理的な考え方だと私も思う。
おそらくアメリカ合衆国の51番目の州になって、二名の上院議員と10名程度の下院議員を出す方が、ときどき外相や首相が訪米して適当にあしらわれて追い返されるより「日本州」が国際政治に参与する割合は高まるだろう。
英語を公用語にしたがっている学校や企業もあることだし。ミナミには「アメリカ村」なんてところもあって、若い人たちは「おれのことをジョニーと呼んでくれ」なんて言ってるし。本学の英文科教員などにも、けっこう支持者がいるかも知れない。

だが、私はそういうふうには考えない。
私は「自分の国だけが助かればいい」というのが、(動物の世界と同じく)国際社会における国民国家の基本的な、「正しい」マナーであると考えているからである。
それは少しもエゴイスティックな発想ではない。
むしろ、倫理的には禁欲的な選択であると私は思う。
だって、「自分の国だけが助かる」ためには、他の国との差別化をはからなければならないからだ。(場合によっては、泣きながら須磨海岸のゴジラのあしもとに突っ込んでゆかなければならない。)
そして、そのように「他国を持っては代え難い国」になることを通じて、その国は国際社会における固有のエコロジカル・ニッチを確保し、システム・ダウンのリスクを回避する一つのオプションを提供することができるのである。
システムを支えるために個体は、「他の個体をもっては代え難い」というきわだった特性を持つ必要がある。それは「おのれひとりが助かればいい」という利己主義ではなく、実は「システムの延命のために、個性的であることを貫徹する」という「滅私奉公」の精神に貫かれた倫理的選択なのである。

日本は不思議な憲法をもっており、不思議な軍隊を持っていて、その二つは不思議な「ねじれ」関係をとりむすんでいる。そして、その不思議なシステムが半世紀にわたって日本の政治的安定を支えてきた。
前に書いた通り、そのことは少しも恥ずかしいことではないし、少しも困ることではないと私は思っている。
「普通じゃない」というのが、日本の国際社会における最大の「強み」なのである。

どうして、弘兼は「普通」になりたがるのか?
どうして「他と同じ」になりたがるのか?
「他と同じ」になろうというその提言が「半世紀の平和と繁栄」と引き替えにしてもいいようなどのようなメリットをもたらすことを予測した上でなされているのか?
私にはよく分からない。
きっと弘兼は「均質的」であることが好きなのであろう。
均質的な集団が好きなのは、弘兼の個人的好悪であるから、そう思うことは彼の権利である。
ただ、他人にむかって「自分と同じように考えろ」というのだけは、よして欲しい。