9月30日

2001-09-30 dimanche

51歳の誕生日。
いろいろな方からグリーティングをいただく。どうもありがとうございました。
フランスからブルーノくん、ヴィンスくん、コッシーくんから「お誕生日おめでとう」電話をいただいてびっくり。
るんちゃんからもお祝いの電話がある。「誕生祝いにワインを送ったよ」とのこと。落涙。

若い時は、まさか自分が21世紀まで生き延びられるとは思っていなかったし、51歳などという年齢に達することなど想像もしていなかった。
しかるに便々と馬齢を重ねているうちに、昔なら「ご隠居」とか「老人」とか言われる年になってしまった。
たしかに歯は抜けるし、膝は痛むしで、私が肉食獣であれば、もうとっくに餓死している。
さいわい霊長類の一員なので、噛めなくても走れなくても、舌先三寸の話芸でお鳥目を頂戴して口を糊することだけはできる。
加えて物欲もとみに衰えた。いますぐ欲しいものといわれたらジャガーと海岸の別荘くらいしか思いつかない。とはいえ、兄上さまが環境を考えてプリウスを買えとうるさいし、日本海岸はこれから雪が降って寒くなるから、この欲望もあまり切実とはいえない。

老後の生活を想像するのが最近の楽しみである。
基本パターンは定番である海辺の家での「晴耕雨読」の半農生活。
「さつま白波」の宣伝で森本レオがやってるような生活。あれはいまどきの中年男性の欲望をみごとに図像化していると私は思う。古い日本家屋の縁側から海が見えて、そこに日が沈んで行くころ、男一人が膳を用意して、旬の美味しいものをつまみながら、「くい」っとさつま白波のお湯割りを呑むのである。
ああ、これだけでいい、もう何にもいらない、という表情を森本レオがする。
いいね、あれは。

私の場合はそれに「犬」がいる。
雑種の老犬の頭をなでながら、「今日も暑くなりそうだね」とぼそりとつぶやく、というのは前に書いたな。
浴衣の尻をはしょって、麦わら帽子をかぶって、庭でトマトなんか栽培するのもよろしい。
もともとガーデニングなどにはまるで興味がない私であるから、当然、トマトは青いし、茄子は唐辛子みたいだし、キャベツは結球しないのだが、そんなの平気である。
そういう「かっこ」がしたいだけなんだから。
あとは孫が遊びに来る。私にとっては目に入れても痛くない孫であるが、向こうは生意気だから(私の孫でるんの子どもなんだから超絶クソ生意気子どもであるはずである)「バカ爺い、早く死ね」とかいっては乱暴狼藉の限りを尽くし、私の珍重している壺とか掛け軸とか(ないけど)を割ったり破ったりするのである。私はそれを温顔でにこにこして見ているのである。
いいね。

夕方になると海岸に犬とでかけて日没に見入る。

「やっとみつけたよ」
「何を?」(と犬が問うのである。しゃべる犬なのね、うちのは)
「永遠を」

などなど。
こういう晩年を勝手に想像して私は楽しんでいる。
「いかに気分よく老いるか?」
どうせ回避できない問いなら、笑いながら考えた方がいいと私は思う。

ひさしぶりのお休みなので、『千と千尋の神隠し』を見に行く。
日本全国で1700万人が見たというのに、映画館はいまだ長蛇の列である。
鈴木晶先生は「宮崎駿は日本の誇りだ」という一行だけの感想をしたためていたけれど、たしかにそうだと思う。
幻想的な世界に、ずっしりしたリアリティがある。
『ファイナル・ファンタジー』には図像的なリアルさはあるが、それは見ている私たちの身体や感覚に肉薄してくる種類のリアリティではない。
「ああ、この図像は現実のある種の断片によく似せているなあ」と感心している「私」は、現実とヴァーチャルリアリティをふたつながら見下ろしている「外の視点」に立っている。
宮崎駿の幻想世界のリアリティはそれとは違う。
図像的はまったく絵空事なのに、ぞくっとするような身体的なリアリティ、感情のひだの奥に触れるような「なまなましさ」がある。私たちは映画の「内側」に引きずり込まれている。
どうしてこういうことが可能なのだろう。
物語がとりわけ深遠であるわけではないし、映像技術が目を見張るほどに高度なわけでもない。
にもかかわらず私たちはアニメの登場人物といっしょに呼吸し、いっしょにどきどきしている。
それはおそらく、宮崎駿という個人を経由することで、物語と技術が完全な調和を見出しているからである。
いわば映画を見ている私たちは宮崎駿の身体に入り込んで、宮崎駿の夢をいっしょに見ているのである。
他人の身体に入り込んで、他人の夢を見る。
それが映画を見るという経験のもたらす最大の愉悦であると私は前に書いたことがある。
宮崎駿が私たちに与えてくれるのはまさしくそのような種類の愉悦である。
そして、その愉悦を観客に提供するために、宮崎駿はほとんど自分の命を削っている。
そのようなフィルムメーカーはたしかに希有である。
私たちが宮崎駿に送るべきなのは、「称賛」ではなく、むしろ「感謝」の言葉であると私は思う。