9月29日

2001-09-29 samedi

臨時教授会。
理事長からある事件についての「説明」を受ける。
非常に不愉快な話であった。
しかし、ことは「不愉快」というような感情レベルの印象を語って済ませることのできない質のものである。
残念ながら、いまの段階では抽象的な言葉で「一般論」を語るほかないけれど、私の原則的な意見だけ言っておきたい。

「制度疲労」から生じた問題については、情報を開示して、事実関係の究明・責任の追求を公開の場での検証に付すという「透明性の確保」が死活的に重要である。
「組織維持のためには、組織の破綻の事実を公開しない方がいい。責任を追求すると組織の恥が表に出るから、責任は追求しない方がいい」という論法は、一見すると世間の仕組みを熟知した大人の知恵のように見える。
だが、外務省や厚生省や神奈川県警や福岡地検でのどたばた騒ぎから私たちが学んだのは、そのようなロジックの無効性と危険性である。
どのような組織も「組織の破綻は隠蔽するほうが組織の利益になる」という逃げ口上に頼ったとき、内部から酸に冒されるようにモラルハザードに浸食される。
最初は「なんだか、やる気がなくなっちまったな」というようなささやかな愚痴から始まり、そのうちに「あれだけのミスをしても不問で済むのに、これくらいのミスでがたがた言わないでくれよ」という言い訳がはびこるようになり、やがて「どうせ誰も責任をとらないんだから、私もとらないよ」という居直りが常態となる。そうやって組織は腐ってゆくのである。
現に「ドブに棄てる金があるなら、こっちに回せ」という発言を教授会で口にする教員がいた。これはすでにモラルハザードの徴候である。
「パイを分割する係」に明確なポリシーがないことが分かってしまった以上、全員が「われもわれも」と権利を主張するようになり、結局声の大きいものから順番に「パイの取り分」が増えることになる。このまま事態が推移すれば、たぶんそうなる。
そうやって「いちばんエゴイスティックな環」から組織が分断されてゆく。その徴候はすでに見え始めている。
常識的なことだが、もう一度繰り返す。

組織の健全性は、「一見健全に見える」ように見てくれを工作することではなく、「病んでいる」という事実を直視し、それを痛みとともに摘抉する能力と、そのプロセスを公開する誠実さによって計量される。そして、その自己摘抉の作業を透明性の高い機関において、相互信頼に基づいて遂行することを通じて、組織の結束は回復される。

私はそう考える。