9月24日

2001-09-24 lundi

合気道の合宿から帰ってきました。
フランスから帰ってすぐバリ島で、そこから帰って、その足で合宿。
仕事、休養、そして稽古、という順序でことが進んだのだが、やってみて分かったのは「休養より稽古のほうが楽しい」ということ。
バリ島脳みそじゅるじゅるツアーは「積極的なことは何もしない」という「わしもうどうなってもいいけんね的」受け身のリラクゼーションであった。合気道のお稽古は「積極的に身体をどんどん解体してゆく」という「攻めのリラクゼーション」である。
稽古をすればするほどみんな陽気になってゆき、どんどん笑い声が大きくなってゆき、だんだんハイパーアクティヴになってゆく。
懐疑的な目から見たら集団的な憑依状態のように見えるかもしれない。
でも、当人たちは楽しくて仕方がないのである。

今回はゲストとして、東大気錬会から北澤さんと高雄さん、月窓寺道場から出田さんと石井さんが参加してくれた。同門の友人たちが遠路はるばるお越し下さるというのはありがたいことである。その期待に応えるだけのお稽古メニューを提供できたかどうかいささか心もとないけれど、私はフランスでちょっと気合いが入ってしまったので、最近の技法的テーマである「止まらない動き」を追求してみた。
実は足を止めて踏ん張ると膝が痛い。だから、膝に負担を掛けないように体を捌いて膝をほとんど伸ばしたままの状態で業を遣うようになる。すると、怪我の功名とはこのことか、足があまり居着かないようになったのである。これで「よい」ということはないのだが、「稽古の方便」としてこういう技法を学んでおくことも若い門人諸君にとっては有用なはずである。

多田先生は昔「35歳になったら稽古の仕方を変えないとだめだ」と教えて下さったことがある。その言葉がどういう意味なのか35歳のときはよく分からなかった。でも、たしかに「50歳になったら稽古の仕方を変えないとだめ」ということは骨身に染みてわかった。おそらく65歳になったらまた変えないとだめだろう。
若いときはとにかく体力にものをいわせてぶんぶんやればよろしい。術理とか理合とか言うことはあまり考えなくてもよい。
35歳になったら、体力の衰えを補うために「術」を遣う必要が出てくる。伝書を読んだり、他芸を学んだり、というのはこの頃の仕事である。
50歳になると「術」に批評性を載せる必要が出てくる。
批評性というのは言い換えれば「個性」である。「私の合気道」と言えば聞こえはよいが要するに「私はへたっぴ」なのであるが、この「へたっぴさ」にはある種の個性というか、かけがえのなさというか、余人をもっては代え難いところのオリジナリティが漂うようになるのである。

「独特の仕方で正鵠を逸する」ということが世の中にはある。
あるいは師匠に就くに際しては、「独特の仕方で師匠の教えを誤伝する」ということがある。

これはなかなか大事なことである。
仮に師匠について技芸を学ぶにさいして「正確な学び方」というものがあるとすると、優れた弟子は「正しく師匠の教えを理解し、継承すること」ができる。
仮に、優れた弟子がn人いて、全員が「正しく」師匠について学んだとすると、そのn人の全員が斉一的な仕方で師匠の教えを理解し継承できることになる。
ということは、それらの弟子ひとりの存在価値はn分の1に減じたということである。
換えがいるんだから、一人二人いてもいなくても別に困らない。
正しく学べば学ぶほど弟子の側の主体性やかけがえのなさが損なわれるというのは、なんだか切ない。
そこで、いきおいnの分母を減らすべく、「正しい弟子」同士のあいだで、「正しい正しさ」と「あまり正しくない正しさ」の排他的競合というものが始まってしまう。
師弟関係を通じての技芸の伝承というのはそういうものであってはならないと私は思う。
学ぶことを通じて、弟子のひとりひとりがそのオリジナリティと代替不能性を基礎づけられる、というのが師弟関係の妙諦である。
だから、「師匠の教えを正しく受け継ぐ」ということは原理的にありえないし、ないほうがいい、と私は考えているのである。
弟子の仕事は、「余人を以ては代え難いオリジナルなやり方で、師匠の教えを逸する」ということである。
「オリジナルもの」同士の間では競合は生じない。
弟子たち同士は、Win-Lose ではなく Win-Win の関係を取り結ぶことができる。
私はこれをして「批評性」と呼んでいるのである。

50歳になって私がしなければいけないことは、師の教えを私に固有の仕方で逸することである。
さいわい、私は50歳にして膝が使えなくなるという故障のせいで、私なりに師の教えを逸脱せざるを得なくなった。
だが、私はそれを悪いことだとも悲しいことだとも思わない。
その際に大事なことは、おのれの解釈が「逸脱」であるということをつねに自覚していること。ただし、正系に親しむことなしには決して構想されることのなかった種類の逸脱、「正系によって受洗された逸脱」であるということをつねに自覚している、ということである。
ややこしい話をしてすまない。

合宿二日目に昇段級審査。二回生8名と四回生2名が受審。ごんちゃんと高洲さんが晴れて「ザ・ブラックベルツ」入りを果たした。おめでとう。ごんちゃんは風邪をおしての合宿参加。審査で気力を使い果たしたか、翌日から発熱して寝付いてしまった。お大事に。(さっき会ったらもう蘇っていた。)
誕生日にはまだ1週間早いのであるが、今年も合宿で誕生祝いをして頂いた。
誕生日プレゼントはなんと「古今亭志ん生ベスト集」CD11枚組み。
なんてツボにはまったプレゼントなんだ。
「欲しいなあ・・・でもちょっと買うのが憚られ・・・と思っていたもの」をいただくヨロコビは筆舌に尽くしがたい。(以前には『燃えよドラゴン』のサントラCDを貰ったことがある。これもツボを押さえた選択であった。)
会員のみなさんどうもありがとう。ウチダの余生はこれによって一段と味わい深いものとなりました。

往きも帰りも秋晴れ。
自動車七台を連ねて、初秋の播磨、但馬路を快走。「あさご」では黒豆ソフトもいただいたし、今回もほんとうに愉快な合宿でありました。
身体が武道の激しい稽古に耐えられない状態になっても武道は楽しい。むしろ、いっそう、そのよさが分かってきた。
世の中には失うことでしか手に入れられないものもある。(とレヴィ=ストロースは書いていた)
ほんとうにそう思う。