時差ボケは三日目がピーク、というのが私の経験則であるが、今日がその三日目。
昨夜は午前2時就寝。午前6時に覚醒。半睡状態で8時起床。朝御飯を頂いて、新聞を読んでいたら眠気が深まり、ベッドへ戻って 12 時まで眠る。
ずいぶんイレギュラーな睡眠の取り方である。
時間的には睡眠は足りているのだが、なんだか「眠りの深さ」がふつうではない。目覚める直前に「ぐん」と眠りが深くなって、そのまま「目が醒める」のである。脳の一部は完全に眠っている状態で、脳の別の一部だけが醒める。
「目覚めよう」とする生理現象と「眠り続けよう」とする生理現象が相剋状態にある。
ここで意識主体である私が決然と「目覚める」なり「眠り続ける」なりを決定すれば、それで黒白は決するのであろうが、私としてもなにしろ半睡状態であるので、「截然となにごとかを決する」ということができにくい立場にある。
「目覚める」ヴェクトルと「眠る」ヴェクトルのあいだで優柔不断におろおろしているうちに対立が限界を超えて、生理過程にきしみが生じ、それで目が醒めるのである。
「死んだショックで目が醒める」ということがあるとすれば、それに似たいやな感じである。
なるほど、分かった。
「時差ボケ」というのは、「フランス時間で生きている生理過程」と「日本時間で生きている生理過程」のあいだの弁証法的な相剋という二項対立図式において了解すればよろしいわけである。いわば、「日本時間で眠り続けようとする生理過程」と「フランス時間で起きようとする生理過程」のあいだのヘゲモニー闘争が私の体内で展開しているわけである。「身体に割拠する地域モード間の対立」として私のいまの生理状態は把握されるべきだったのである。
だが、なぜ私はそのような身体過程の知的把握を試みることなく、呆然と「ねむいよー」などとつぶやくだけに終わっていたのであろう。
それは、「ボケ」というようなとらまえどころのない症候名称をうかつに使用したためである。私がこの生理現象を正しく把握することができなかった原因のすべてはこの日本語にある。
「時差ボケ」という名詞は、「ボケ」の一語の挿入ゆえに、「この事態は知的把握になじみません」という価値判断をすでに含んでいる。
jet lag や decalage horaire など英仏語における表現は、二つのもののあいだに「ずれ」があるという客観的事実だけを述べており、その結果「ボケ」が生じるというようなことは一言だに語られていない。
「ボケ」の一語を挿入することで、日本文化は、ある客観的事実と、それから帰結する主観的状態を癒着させている。
これはたとえて言えば「骨折激痛」とか「高熱朦朧」とかいうのに等しい。
「骨折したんだから痛いはずである」「熱があるから意識朦朧であるはずである」という「はずである」部分が想像的に挿入されているのである。実際には骨折したが痛みがないとか高熱であるが意識は明瞭ということだってあるのに。
「時差」を経験した以上「あなたはボケているべきである」という社会的な態度決定をこの語は私たちに無意識的に強要してきたのである。
これは日本文化のある側面をきわめてみごとに示す用語法であると言わねばならぬであろう。
それは社会が私たちの身体反応に「制式性」「均質性」を要求している、ということである。
そういえば、『リベラシオン』の日本関係記事でどうも腑に落ちない用語法が一つあったのを思い出した。
「イジメ」である。
小中学校での「イジメ」について報道していた記者はあきらかに「イジメ」というのを「集団的に迫害されている子ども」scapegoat のことだと思い込んでいた。
日本語の「イジメ」にはそのような語義はない。
その語は「集団的な排除と迫害」という現象一般を漠然と指しており、加害者であれ被害者であれ「人間」を指示していない。
この用語法は「イジメる子どもも実は別の子にイジメられている」とか「イジメられる側にもなんらかの責任はある」「子どもたちはすべてが教育制度によるイジメの被害者である」とかいう表現に端的に見られるような「加害被害の因果関係をごちゃごちゃにして、責任の所在をうやむやにしたい」というマジョリティの暗黙の同意に基づいて採用されている。
フランス人記者はこのような「暗黙の同意」を共有していないので、「イジメ」とは「集団的迫害の被害者」を指称する名詞であると誤解したのである。
「イジメ問題」と「イジメ被害者問題」では意味が違う。
「イジメ被害者問題」であれば、私たちはただちに「被害者の救済と加害者責任の追及」に進まなければならない。
「イジメ問題」であれば私たちは苦い顔をして腕組みしているだけで済む。
事態を記述するにさいして、包括的な名称のみを用い、「被害者」だけを指す固有のネオロジスムを作らない、という仕方で私たちの社会は、被害者の救済と加害責任の追及をネグレクトする方向を「すでに」選んでいるのである。
(2001-09-15 00:00)