9月11日

2001-09-11 mardi

パリ最後の一日。学生諸君は最後のエネルギーを振り絞って観光と買い物に奔走している。私は欲しいものも、見たいものもないので、なすこともなくホテルの部屋にこもりパソコンに向かっている。
お掃除の時間になったので、とりあえずホテルから出てバスチーユのカフェまで歩いていって、お昼を食べる。(Croque madame と demi と cafe で 75F)そのままカフェの端っこの席に陣取って新聞をすみからすみまで読む。
フランスにいると、とにかく動作のひとつひとつが緩慢になる。というか、緩慢に動いていないと「間が持たない」。
カフェにしても、座ってから注文をとりにギャルソンが来るまで、うっかりすると 15 分くら待たなければならない。注文をしてからものが来るまでの時間もあちら任せである。あせっても始まらない。
レストランの場合はもっとすごい。いちおう、夕食は2時間から3時間を予定しておかないといけない。Entree(前菜)とplat(主菜)のあいだが1時間というようなことだってある。
しかたがないから、レストランではワインをお代わりしながら、おしゃべりをしてひまをつぶすのである。(ワインの注文への反応は意外に俊敏である。)
しかしひとりではおしゃべりの相手がいない。
日本にいるときはひとりでレストランやカフェに入るということは、私の場合まずない。(だいたい外出しないし)せいぜい「もっこす」か「マクド」で食べるくらいである。(これだと 10 分で食事が終わる。)その場合でも活字なしでは一分といられない。(活字を持たずに入ったときは、しかたがないので、メニューの文字をすみからすみまで繰り返し読んでいる。)
しかるに、「ひとりでレストランで食事をしていて、そこにいささかも『間が持たない』という感じがしないこと」というのは、私がひそかに「紳士の条件」のひとつに定めたものである。

これはそのむかし、何人かで連れ立って浅草の「駒形」に「どぜう」を食べに行ったとき、私のかたわらの席にいた中年の紳士の堂々たる食べ方に感動したことによる。
この紳士はただ一人で「どぜう」鍋に向かっていたのであるが、その「ねぎ」の入れ方、七味の加減、「どぜう」を食しつつ熱燗の徳利から猪口に酒を注ぐ間合い。そのいずれもが間然するところがないものであった。
私は当時 27 歳くらいの若造であったが、その紳士がきれいに鍋を食べ終えると同時に、最後の猪口の酒を呷り、ゆるりと立ち上がるさまを見て、「おおおお」と深い感動を覚えたのである。

一人で食事をしていて、そこにいささかの破綻もない、というのは「一つの芸」である。
一人でいても、本を読んだり、新聞を読んだり、テレビを見たり、窓の外の景色を見たり、店員に話し掛けたりし「ながら」の食事では「芸」とは言えない。
まっすぐに料理に対峙し、それを満喫し、かつそのたたずまいが端然としていること。これはむずかしい。
ところが、フランスに行くと、これがいるのですね。
そういう黙然とひとり食事を楽しむじいさんばあさんが。
老残、孤独、哀愁というスパイスが利きすぎというときもあるが、昼日中から、高価なスーツに身を包んだ紳士が、一人カフェの奥で、虚空をみつめつつワインを味わい静かにランチをいただいている絵柄というのは、悪くないものである。

日本の政治家の名前が新聞に出ないと書いたら、今日は le nouvea Premier ministre Koizumi の名が出ていた。不況のせいで、自衛隊の入隊希望者が増えているという記事の中。
自衛隊は世界第二の経済大国が誇る 22 万人の軍隊で、2001 年度の防衛費 500 億ユーロは世界第二位。(それでも GNP のわずか1%)その装備は世界最高水準。その次なる目標は憲法改定であり、新首相コイズミは「憲法九条改定運動の推進役」という紹介である。7語だけ。フランス人は日本の政治家にはまるで関心がないらしい。アフガニスタンのゲリラ指導者アハメッド・シャー・マスッドの爆殺事件は2面を使ってその動静を詳しく報道しているのに。
これはやはり日本の政治家というのが純粋にローカルな存在であって、そこには国際社会の状況を主体的に変化させてゆこうとするような「大きな政治理念」がごっそり欠落しているので、そもそも世界情勢に少しでも関係することを「するはずも、言うはずもない」というふうにみなさんに思われている、ということでしょうね。