8月17日

2001-08-17 vendredi

ようやくレヴィナス論が書き上がった。
構想5年、執筆1年(正味は夏休み二回と春休み一回)。
感慨無量である。
1985年に『困難な自由』の翻訳をしてから16年。ついに「お師匠さまに捧げる本」を書き上げた。
内容を簡単にご紹介すると

(1)私はレヴィナス先生の「自称弟子」であり、本書はひたすら老師の完璧なる叡智を称えるだけの目的で書かれているので、学術的厳密性とか中立性とか実証性とか要求されても困る。

(2)レヴィナス先生のテクストは「謎」であり、これを解読するためには、「謎のテクストの解読法」というものを知らないと歯が立たないのであるが、「謎のテクストの解読法」こそがそもそもレヴィナス先生ご自身のテクストの主要論件なのである。つまり、私たちは「レヴィナスの読み方をレヴィナスから読みとる」あるいは「レヴィナスの学び方をレヴィナスから学ぶ」という無限ループ構造にここで跳び込むことになる。

(3)いわば自分の髪の毛をつかんで宙空に浮くようなもので、そんな読み方をすれば、実証性とか客観性はたしかに望むべくもない。だが、「なにがなんだかわけのわからないサスペンス」を味わえることは確実である。

(4)レヴィナス思想とは要するに「自前のバカ頭」(これをレヴィナスは「自己同一者」とか「主権的自我」とか名づける)が「他者」にひっかきまわされて解体する経験そのものを「バカ頭」をもって記述することはできるか、という問いをめぐる思考である。

(5)したがってレヴィナス思想について語るという経験はそのままレヴィナス思想の実践になってしまうのである。

(6)しかし、目がくるくる回るのはけっこう気持がいいし、「目がくるくる回りつつあるおのれの経験」について客観的かつ適切に記述するためにはけっこう頭も使う。

(7)気持がよい上に勉強もはかどって、一粒で二度美味しい。

などという話から始まって、第一章では、レヴィナス哲学を概説、第二章は懸案の「サルにも分かる現象学」。第三章はフェミニストによるレヴィナス批判への反批判という、なんだかでたらめな構成になっている。

しかし、読み返してみると、われながら面白い。
私は「面白いレヴィナス論」というのを読んだ記憶がないが、多少すべった笑いにせよ、レヴィナス論に笑える箇所がある、というのはレアである。
やたら長くなってしまったのは、出てくる固有名や哲学思想については原則として「読者は予備知識がない」という前提で書いているからである。
テクスト論は「タルムードとはどういう本か」という話から、フッサール批判は「現象学とは何か」という問いからし、ボーヴォワール批判は実存主義の説明からし、イリガライ批判はフェミニズムの解説から入るのである。これではたしかに手間ひまがかかる。
手間ひまがかかるが仕方がない。
「大学生にも分かるレヴィナス論」を書く、と心に決めて書き始めたのである。(「大学生にも」という限定がなんだか哀しい。要するに「ものを知らない人」の代名詞なんだよね、いまでは「大学生」というのが)
ともかく、そういうわけで草稿は書き上がった。あとはこれを切り縮めるだけである。600枚くらい書いてしまったので、これを半分近くに刈り込まないといけない。その作業を夏休みの残り期間に『困難な自由』の改訳の片手間にするのである。
秋風の吹くころに出版社に原稿を渡して、年末か年明け早々くらいには本にしたい。
この本が出ると、私が生きているあいだに書かなければいけないと思っていた本はとりあえず書き終えたことになる。ライフワークが終わってしまったということである。
あとは余生である。
遊んで暮らせる。らりほー。