8月16日

2001-08-16 jeudi

フランス出発まであと1週間を切った。ぜんぜん支度をしていないが大丈夫であろうか。
けっこう大荷物である。パソコンと翻訳道具一式(辞書と変圧器が重い)。ブルーノくんとの稽古があるので道衣一式。着替えとカセットと文庫本(漱石と荷風)。インスタント味噌汁とダシの素も必携である。
通説によると、日本人はお醤油から必須アミノ酸の過半を摂取しておるので、お醤油をとらないでいると大変疲れやすくなるという。
これは実感としてよく分かる。
87 年にフランスに行ったとき、3週目くらいになると同行の松本くんも私も肉とパンの食生活に消化器が疲れて、さっぱり食欲がなくなったことがあった。そのとき青い顔でカルチエ・ラタンの食堂街まで這って行って、中華料理屋で「ラーメン」状のものを食べておつゆをごくごく飲んだら、ほとんど瞬間的に蘇生した記憶がある。
以来海外旅行には必ず「お醤油パックとシマヤだしの素とわかめ」を持参することにしている。朝はまずホテルの部屋でお湯を沸かして「わかめのおつゆ」を飲むのである。
ほっこりとしあわせな気分になる。
パリにいるあいだほぼ隔日でオペラ横の日本食街に通って「札幌味噌ラーメン」を食べている私を見て「なんでパリまで来て・・・」と咎める人が多いが、こればかりはやめられない。趣味嗜好の問題というよりは栄養学的なバランスを配慮しての行動ということでご海容願いたいと思う。いいじゃないか、日本にいるときは牛肉とパスタをいつも食べてるんだから。

今日は一日ひとさまの論文を読んで過ごした。数百頁読んだが、それほどには疲れなかった。たぶん私の知らない話ばかりだからであろう。
異業種のひとの書く論文を読むのは、基本的に楽である。
学会誌の編集委員をしていたときもずいぶんたくさんひとの論文を読まされたが、これは読むのがたいへんに苦痛であった。というのは、同業者が書いたものなのに、私には理解できないことばかり書いてあるからである。一頁読むたびに「おまえはほんと無知だな」と頭をどづかれているようで、あまり気分がよろしくない。
その点、異業種論文の場合は、私の知らないことや分からないことがいくら出てきてもそれは私のせいではない。「ふーん、そういうもんなんだ」で済ませてどんどん読み進むことができる。
不思議なことだが、どれほど知らないことばかり書いてあっても、「知らないことばかり書いてある論文」同士の優劣は何のためらいもなく判定できる。
なぜそのようなことが可能であるのかというと、「かゆいところに手が届くかどうか」という規準で私が判定をしているからなのである。
説明しよう。

学術論文というのは、要するに「問いを立て、作業仮説を示し、論証する」というだけのものである。
「問いを立てる」というのは「かゆいところを示す」ということである。
「作業仮説」というのは「孫の手」である。
「論証する」というのは、「かゆいところを掻く」ということである。
よい論文というのは、「ほどよくかゆいところ」というものがたいへん実感的に提示され、ついで「孫の手」の構造と機能について、簡潔にして要を得た説明がある。しかるのちに、「ごりごり、さわさわ、くいくい」と「かゆいところをかきまくる」論証作業が行われるわけである。
よい論文ではこのプロセスが過不足なく進行し、読み終えたときに身体的な爽快感が残る。
だから、どれほど私の知らない学術領域のものであっても、「かゆみ」と「掻かれたあとの爽快感」の一致という点に焦点化して論文を読めば、基本的には論文完成度は査定できるのである。
ただしこれだけでは、当該学術領域におけるその知見の独創性や先端性までは査定できない。だから、そのへんは「孫の手」の新機軸を説明するときの「得意げな様子」とか、がりがり掻くときの「鼻息の荒さ」というようなものから推察するのである。

以上が私の年来の持説であるところの「孫の手・論文査定術」である。
卒論、修論の査定も同一基準だから、学生院生諸君は熟読玩味しておくように。