今日も暑いが、なんとなく太陽の光にいまいち「力がない」感じがする。
こうやってゆっくり「ひとこそみえね秋はきにけり」なのであろうか。
NTT フレッツというものに入った。よく分からないのであるが、インターネット常時接続でお値段なんと定額月 3300 円という口上に乗せられて、またまた ISDN に続いて NTT にご奉仕してしまった。次郎先生ごめんなさい。KDDI の新入社員のお二人さんもごめんね。裏切り者で。
私は「しつこいおばさんの営業」に弱い。
むかし生命保険に入ったときもそうであった。甲高い声で耳元でまくしたてられるのに耐えきれず、ついふらふらと「はいはい好きにしてください」と答えてしまったのである。
ISDN も今回のフレッツも、おばさんの電話営業にあっというまに屈服してしまった。このあたりに私の致命的弱点がある。
ISDN のときはダイアルアップまでずいぶん手間暇をかけたので、今回も新サービスへの切り替えで、しばらくインターネットが使えなくなって困惑することになるのだろうなとはなからあきらめていた。
案の定、NTT から送ってきたマニュアル通りに設定をしたがプロバイダには繋がらない。はははは。
どうして「一発 OK」ということが私のパソコンライフにはついぞ起こらないのであろうか。もう怒る気にもならない。
6年前のマニュアルを引っぱり出して infoweb のサービスに電話をする。もちろんそのようなものはもうこの世に存在しない。一応私の身に何が起こったのかを確認するために電話しただけである。
番号案内で聞いてみると、infoweb はnifty に化けたのであると教えてくれる。実はそんなことではないかとうすうす疑ってはいたのであるが、一応確認したのである。nifty のサービスに電話をするがもちろん繋がらない。「ただいまたいへんこみあっておりますので、おかけなおしください」と言うのを無視して 10 分間繋いだ待つ。
やっと繋がったのでフレッツ ISDN の設定の仕方を教えて下さいと頼む。
繋がらないのは当たり前で私は二つのミスを犯していたのである。
(1)プロバイダにフレッツを使うよとあらかじめ登録しておかないと使えない
(2)infoweb がnifty に化ける際に私の ID も別の ID に化けており、私はそれを知らなかった
ひとの知らないうちにプロバイダが勝手にアクセスポイントの電話番号を変えたり、ID を変えたりするのは困ったものである。
そういうことを連絡するメールが来てるでしょうというが、そんな DM みたいなクズメールなどを私がことこまかに読むはずがないではないか。
そういうときは「旦那、これを読んでおかないとインターネットが使えなくなりますぜ」という標題のメールにしておいてほしいものである。
ともかく奇跡的に今回は設定を開始して1時間で新しいインターネットサービスが機能しはじめた。
指定通りに設定してもコンピュータが動かないときにもすこしもあわてず、「そういうもんなのよ、コンピュータつうのは」といってコーヒーを一服して、いまや存在しないプロバイダのサービスに電話するところから始めるというクールというにはあまりに自暴自棄な態度が今回の短時間での機能回復につながったわけであるが、これをして「コンピュータ・リテラシーの向上」ということがはたしてできるであろうか。
私はできないと思う。
首相の靖国参拝と同じ大きさで新聞は尼崎の小学生死体遺棄事件を報じている。
私にはこの二つは「同一の潮流」の露頭であるように思える。
昨日書いたように、日本はいまはっきりと分裂に向かっている。分裂の中心になっているのはかつて私が「日本社会のもっとも弱い環」と呼んだ「子どもたち」である。今回の事件の容疑者である 24 歳の夫婦もこの「子どもたち」に類別してよいだろう。
この「子どもたち」に共通しているのは、「未来がない」「希望がない」(@村上龍)ということである。
「未来がない」というのは歴史的なパースペクティヴに即したものいいだが、これを個人的なレヴェルで見ると「ヒトのネコ化」ということになる。
ご存じのように「ネコに未来はない」。
それは別にネコは立身出世を望まないとかマルクス主義的でないとかそういうことではなく、ネコには「未来」という時間の観念がないということである。
「いまがよければそれでいーじゃん、にゃお」
というのがネコの生き方である。
これはこれである種の動物の人生(獣生だな)哲学としては、なかなか実利的であると思う。
ネコをゆすって、「そんなことじゃだめだよ。老後に備えて、貯金とかしたほうがいいぜ」などと説教するのはまったく無駄なことである。
私が「さいきんのわけーもん」について感じるのは、彼らが一様に「ネコ化」しつつあることである。
ネコ型若者の特徴は、彼らにとっての「いま」の時間幅が劇的に短縮していることである。
「若いんだから、いま人生を楽しまなくちゃ」というような場合、「楽しめる」期間はいちおう数年から十数年くらいのスパンを持っている。それだけあると、その中には仕事をする時間とか、世間とのお付き合いの時間とか、身体を鍛える時間とか、本を読む時間とか先祖の供養をする時間とかがごちゃごちゃと含まれている。
ほんらい、若者が「先のことはわかんねーよ」という場合の「先」というのは、実はずいぶん先のことであり、それまでの数年から十数年は「いま」に繰り込まれていたわけである。
それくらいのスパンがあれば、「いま」を楽しみつつも、手の空いているあいだに、人格陶冶とかスキルの習得とかいろいろなことができる。
ところが、最近のネコ化した若者において、「いま」は数時間から数日程度にまで短縮しているように思われる。
例えば、「むかついて」人を殺した場合、たいていは逮捕されて有罪になる。
「人を殺してむかつきがすっきりした」快感が持続する「いま」は数秒から数分程度であるが、逮捕拘禁裁判服役前科者に世間の風はつめてーぜ場合によっては死刑な一連の「未来」は数年から数十年ときには死ぬまで続く。
そのような「未来」と「いま」を引き替えにするのはどう考えても間尺に合わないように思うが、その「間尺に合わない」という発想法そのものが「未来」という概念を持たない人間には備わっていないのである。
あるいはまた、いきなり学校を止めて、家を出て、売春で生計を立てたり、おじさんの囲われ者になったりする中学生がいる。
学校に行かなくてよいというのはとりあえず「快」であろうし、ばんばんセックスするのもとりあえず「快」であるのかもしれない。
だが、そういうことをしている限り、誰からもレスペクトを得ることができない。
若い人はご存じないかもしれないが、人はパンのみにて生くるに非ず。実は他者からの敬意がないと社会的には生きていけないのである。(生物的には生きていけるけどね)
身体的快感とレスペクトの交換は、殺人と刑務所暮らしの交換ほど極端ではないけれど、ほんとうは致命的に不利なレートによる「いま」と「未来」の交換なのである。
「未来」をほとんど捨て値で「いま」と交換することがどれほど不利な取り引きなのか、若者たちは気づこうとしない。
というのも、、「いまがよければいーじゃん」思想自体は、若者のあいだではいまや圧倒的にドミナントなイデオロギーとなっているからである。
だから、「将来のことを考えて」こりこり勉強している高校生は、よほどの逸材でないかぎり「けっ、せこい野郎だぜ」という周囲の蔑みに効果的に返す言葉を持たない。(まさか「アリとキリギリス」の話をして聞かせるわけにもいかないし。だいたい「なんで、キリギリスがいけねんだよー。いーじゃねーか。シド・ビシャスみてーで。シブイじゃんか」と言われたら返す言葉がない)
人間が単にネコ化するだけであれば、実害はまだ少ない。
物置に放り込んで、マタタビでも舐めさせておけばさしあたりはおとなしくしているからね。
だが、「未来のない」人間はご覧の通りどんどん「いま」が短縮化してゆく傾向にある。
未来はないわ、現在は短いわではご本人の居場所というものがない。
行く先は一つしかない。
そう、「過去」に向かうのである。
「未来のない若者」たちは「過去」を住みかとするようになる。
それが昔のアニメ番組やC級ホラー映画や昔のロック音楽についてのトリヴィアクイズのだしっこ程度におさまっているうちはよろしいが、ふつうはそのあと「トラウマ探し」に踏み込むようになる。
「私の現在の不幸」は過去のある忌まわしい出来事によってすべて説明されるというのは未来がない若者にとってはたいへんにありがたいエクスキューズである。この先、どのようなぱっとしない未来が訪れようとも、それはすべて「トラウマ」のせいなのである。知的負荷が激減する。
知的負荷を減少させる説明が彼らの「マタタビ」である。
近年の TV ドラマに「幼児期の精神外傷によって深く傷つき、(暴力衝動、過剰性欲、貪欲、不信、などなどが)自己統御できない登場人物」というのが続々と出てきていることにお気づきであろうか?
そのようなトラウマ的人間を「社会は暖かく受け容れなければいけないよ」というメッセージを TV はだらだら垂れ流している。もちろん人道的見地からではなく、そういう状況設定が「ネコ型若者」の「マタタビ」であることをあざとい TV 屋さんは熟知しているからである。
しかし、「むかし」志向はトリヴィアクイズとトラウマ探しだけではおさまらない。
さらに「起源の物語」というものにはまりこむものが出現する。
「原初の清浄」が「異物の侵入」によって汚され、それによって「本来私に所属するはずであったさまざまのリソース(社会的威信、財貨、情報、エロス的愉悦などなど)」が、「異物」によって簒奪された・・・それを「奪還せよ」、という「物語」が次の段階での「知的マタタビ」となる。
私が恐れているのは実はこれである。
歴史上の血腥い事件はそのほとんどがこの「原初の清浄」についての物語から始まっている。
「未来のない若者」はそれぞれの知的感性的資質にしたがって、「ネコ化」「トリヴィア・クイズ好き」「トラウマ探し」「原初の清浄説話」のいずれか(あるいはすべて)の道へ進んでゆく。
昨日も書いたとおり、私が真に恐れているのは最後のものだけである。
それがどのようなかたちをとることになるのか、私にはいまの段階では的確には予想できない。しかし、それが出現するであろうことはたしかである。
悪い予言はよく当たる。
(2001-08-15 00:00)