小泉首相が靖国神社に「前倒し」参拝した、という記事が出ていた。
この件についてはいままで何も書いていないので、ちょっとだけコメントしておく。
キャンプのときの清談で、「自民党は政党ではなく、ミニ日本である」という話が出た。
統一的な綱領も理念もなく、日本各地のさまざまな地域や業界の利益を代表しているひとたちの集団であるから、たしかにどちらかというと政党というより「日本の縮図」である。
その日本の縮図である自民党が世界に誇るのはその「合意形成システム」である。
これについては小泉ご本人が「加藤政局」のときに「わが党の合意形成システムはなかなかすごいよ」と自慢していた。「しかるべき落とし所にちゃんと落ち着くよ」
その「しかるべき落とし所」が小泉総理だったわけである。
私は去年の加藤政局のときに、小泉純一郎は「存外策士である」と書いた。
この人は日本社会ではどうやってものごとが決まってゆくのかについて、動物的な直観を持っている。(その点、ちょっと長嶋茂雄的)そして、それをコントロールする術もある程度持っている。
小泉首相の刻下の政治的課題は次のようなものである。
「構造改革による経済的体力の回復・国際社会での政治的威信の回復」。
構造改革とは「市場原理・自然淘汰」の導入である。マーケットが必要を認めない人間や組織は淘汰される。「全国民の市場価値に基づく差別化」である。「一億総中流」時代が終わり、「価値のある人間」と「ない人間」がきれいなグラデーションで並び、新たな階級分化が始まることになる。
構造改革は、あらわに「国民の差異化」「国民の分裂」を志向している。
その一方では、対米関係、対アジア関係をはじめ日本が国際社会の中でどのようにクレバーなパフォーマンスをするか、ということが切迫した課題となっている。
外交において適切かつ大胆にふるまうためには、政権担当者に対する国民の信認が必要である。すなわち国民の一体感と国論の統一が必要である。
しかるに、構造改革による国民の差別化・分断化は避けがたい。
ここに深刻な矛盾がある。
国民を分断しつつ、なお国民に一体感を抱かせるにはどうすればよいか?
これが「小泉純一郎の問題」である。
ほんらい政治過程には二つのファクターがある。「合意形成・利害調整」と「理念統合」である。
戦後日本では一貫して「合意形成・利害調整システム」だけが「リカルポリティーク」と呼ばれてきた。その「竹下型政治手法」に限界が来て、今日の危機的状況がある。
ということは、これまでないがしろにされてきた第二のファクター「国家的理念による国民の統合」が前景化することになる。
まず大胆な政策を実施し、その効用で事後的に国民的同意を確保する、という「理念先行」型政治家が輩出することになったのは、そのような流れのなかに位置づけられるだろう。(メディアが「ポピュリスト」と呼ぶのはこのタイプの人々のことである。)
さて、日本の政治プロセスにおいては、「合意形成・利害調整システム」と「理念統合システム」は伝統的に別の政治単位が分担してきた。
ご存じのように、それは「アマテラス」と「スサノオ」から、「卑弥呼」と「弟君」を経て、「藤原氏」と「朝廷」、「歴代幕府」と「朝廷」、「代議制民主主義」と「天皇制」というかたちで、連綿と受け継がれている。
合意形成と利害調整のシステムが破綻し、理念先導型で危機を乗り切る、ということになると、これは敗戦以来56年ぶりに「アマテラス」的政治単位の出番である。
小泉首相は直観的に、戦後半世紀にして「天皇制」を効果的に政治利用する機会が来たことを察知したのである。
天皇のために殉じた軍人を祀る靖国神社に参拝するというパフォーマンスのねらいは政治的には一つしかない。
それは天皇への忠誠と崇敬を示すということである。
小泉純一郎自身がどのような天皇観をもっているかは知らないけれど、「存外策士」であるこの政治家が、「天皇カード」の使いどきということを考えていることはまちがいない。
「天皇カード」は 130 年前の明治維新では効果的に使われたが、その次は大失敗した。小泉首相はおそらく明治維新のときの「天皇カード」の使い方を念頭にして、「現実には分断され差別化されている人々が、それにもかかわらず公共的利害を共有しているという幻想を抱く」ようにするにはどうしたらよいのか、ということを考えているはずである。
私はこのような政治的発想そのものは間違っているとは思わない。
「天皇カード」が政治的に有意なファクターであるかぎり、誰かがどこかで使う気になるのは止めることはできないと思う。
ただこれは非常に危険なカードであり、使い方を間違えると大変なことになる。
いまの政権担当者たちが考えているのは、
(1)日本はあらゆる水準で(政治的・経済的・文化的・人種的)国民の分断化に向かっており、それは構造改革でさらに加速される
(2)国家として国際社会で生き延びるためには、国民的統一が喫緊である
(3)国民的統合という幻想を効果的に担いうる政治的機能を日本は経験的に一つ持っている。
ということである。
しかし、そのもう少し「先」までできたら想像力を働かせて欲しいと思う。
国民の分断化は若い世代の知性とモラル低下と、多民族化の進行のために予想以上にはやく進行している。
構造改革の進行はいずれ若い世代から大量の失業者を生み出すだろう。そのとき、アジアからの移民(それも高学歴の)が中間管理職や流通の末端を押さえ、日本の低学歴・低職能の若者が、その下で未熟練労働に従事するようになる。(だってバカなんだもん)
つまり、社会の最上層に「日本人」、なかほどに「アジア移民」、最下層に「日本人」という「サンドイッチ型」の階級構成になることが予測されるのである。
遠い先のことではない。
ここに当然「移民問題」というものが発生する。
若いバカ日本人の未熟練労働者や失業者が新しい暴力的なナショナリズムの培地となり、天皇制イデオロギーの信奉者として登場してくる可能性は非常に高い。というか、ほとんど確実であると私は思っている。
だから、問題はいかにしてそのような事態を阻止するか、である。
狂信的ナショナリズムに基づくテロリズムこそは、私たちがどんな代価を払っても回避しなければならないものである。それこそがほんとうは構造改革より国際社会での威信回復よりも「急務」なのである。
そのへんの先のことまで、ぜひ考慮にいれて小泉首相には「熟慮」して頂きたかったと思う。
(2001-08-14 00:00)