朝から晩まで机にむかってレヴィナス論を書いている。
家から出るのは、夕方から一日一回 NOVA に行くだけ。
そこでフランス語を 80 分間話して、家に戻って、お風呂にはいって、ワインを呑んで、バカ映画を見て、一日が終わる。
口を開いて話している言語は、この四日間はフランス語の方が多い。
22 日にフランスに出発なので、錆び付いたフランス語をなんとか使える水準に戻すためにとにかく毎日通うことにした。
考えてみると、私は三宮の NOVA が開校したころからの生徒である。もう 10 年生だ。そのあいだずっと同じレヴェルをキープしている。一度だけレヴェルアップの話があったのだが、講師の一人が「こいつは小学生が知っているような単語を知らない」という理由で反対したので、沙汰やみとなった。
15 ヶ月ぶりの NOVA であるが、四日連続して通ったら、今日あたりちょっと調子が出てきて相手の話の 90% くらいが分かるようになった。
分かるといっても、それはオーラル的に分かるというのとはちょっと違う。
しゃべっている相手の顔の下にフランス語字幕が出るので、それを読んでいるのである。調子がいいときは、この字幕の出方が順調で、音声の前に「次の台詞」の字幕が出たりする。その場合は、「字幕」の文字を順番に音声がたどって行く「カラオケの歌詞」状態になる。
逆にしゃべるときは頭の中にフランス語字幕が浮かぶので、それを読み上げる。
調子が悪いときは字幕が出ない。しかたがないので、「かねて用意の」ストックフレーズとストック小咄を小出しにしてお茶を濁すことになる。
これまで何度もしゃべったことのある2、3分程度の「ストック小咄」を二つ三つつなげていると、場つなぎにはなるが、なんだか情けない気分になる。
こういう「ずるずると芋づる式に」繰り出してくるストックフレーズをあらかじめ 300 とか 500 とか仕込んでおいて、それを繰り返す、というのは外国語学習法としては効果的なのであろうが、個人的にはいまひとつ納得がいかない。
ひとと話す以上は一期一会なのであるから、その瞬間に頭に浮かんだオリジナルかつユニークなアイディアをフランス語にしてみたいと欲張ってしまう。その場で思いついたことであるから、当然日本語でさえうまく言えない。それをフランス語で言おうというのであるから、まあ、無理である。
今日言おうとしてうまく言えなかったのはこんな話。
「武道における師弟関係の本質は、弟子が師を選ぶ自由をもっているという点に存する。
しかるに、弟子は、定義上、師が何者であり、どの程度の技量をもち、どの程度の格の人物であるかを判定できない。
判定できないにもかかわらず、それを判定しなければ弟子入りできない、という不条理のうちに師弟関係の緊張はある。
しかし、この判定による弟子入りの成否はしばしば師が『ほんとうはなにものであるか』にはかかわらない。
というのは、弟子の仕事とは師を『完全な人物』と思いこみ、その一挙手一投足のうちに叡智の徴を見出すことだからである。
弟子はそうやってしばしば師が教えようとしていたこと以上のことを学び知ることができる。
師弟関係とはほんらい純粋に機能的な関係であり、師弟それぞれの人間的資質とは無関係なのである。」
これは私の持論だから、なんとかフランス語でもたどたどしくは言えるのであるが、調子にのって、これをいきなり敷衍して、「そもそも日本社会は師弟関係を軸として作られた社会である」とでまかせを言ってしまったもので収拾がつかなくなってしまった。
幸い時間切りとなったが、次に「続きをきかせろ」といわれらどうやってつなげたらよいのであろうか。
(2001-08-03 00:00)