8月1日

2001-08-01 mercredi

夏休み3日目。順調に「お仕事マシン」と化して、レヴィナス論を書きまくる。
いつも書いていることだが、こういうものは「その世界」に入り込んでしまわないとどうしてもある程度以上の深度に達しない。
かつて竹信くんに聞いた名言に「数学の問題は肘で解け」というのがある(これは灘校の伝統的な教育的箴言らしい)。それと同じで、哲学的な著作というようなものの場合は「身体で読む」ということが必要となる。
こちらの自前の頭で読んでいたのではどうしても理解の届かない境位というものがある。(なければ困るし。)しかし、こちらとしては手持ちのバカ頭以外にものを考える装置というものを持ち合わせていない。となると、とにかく「自前の頭では理解できないことを、むりやり理解させる」という不可能に挑戦することになる。
「身体で読む」のである。

レヴィナスならレヴィナスを毎日5時間1ヶ月間読み続けていると、身体が(文を読むときのリズム感が)「レヴィナス化」してくる。あののたくるような「・・・・ではないのだろうか?」という否定疑問文の列挙が「快感」になってくる瞬間が訪れる。どこにも着地できずに空中を遊泳するような思考の不安が「心地よいスリル」であるような瞬間が訪れる。そのとき、ふいに「次にレヴィナスが何を言い出すか」がわかる、という奇蹟が起こる。

これが「その世界に入り込む」ということである。
私がこういうことが可能であるというのを知ったのは25年ほど前にハイデガーの『存在と時間』を読んだときのことである。このときは1ヶ月間、朝から晩までハイデガーを読んでいた。一月後に私は「ハイデガー」に憑依された状態になっていた。
これでよいのである。
いま書いているレヴィナス論は、第二章でフッサール現象学について言及しているのであるが、そのころ(今年の3月ごろ)は何週間か連続してフッサールばかり読んでいたので、第二章だけ文体がまるで違っている。(「フッサール」に憑依されていたのである。)

身体で読むことの不便な点は、

(1)「身体で読む」段階に達するまでのウォームアップにたいへん時間がかかる。
(2)「憑依」されている時期が過ぎると、文字通り「憑きものが落ちたように」なってしまって、そこで書いたり読んだりしたことはすべて忘れてしまう。

なかなかうまくゆかないものである。
しかし、その代わりに自分が書いたものをあとになって読んで、「ふーん、そういうことだったのか」と感心するという「アルジャーノン」的感覚を味わうこともできる。
身体で読んだものはなにしろ一度は自分の身体を通過しているわけだから、私にはたいへんなじみやすい「味付け」になっている。だから、自分で書いた「・・・論」はほかの誰が書いたものよりも読みやすいのである。