7月20日

2001-07-20 vendredi

女性学インスティチュートから頼藤和寛先生の追悼文集の原稿を頼まれていたので、先生の『わたし、ガンです-ある精神科医の耐病記』(文芸春秋)を読む。
前に『人みな骨になるならば』(時事通信社)を読んだとき、「人間いつ死ぬか分からない」memento mori という言葉の、ほとんど強迫的なまでの繰り返しに驚いたけれど、先生はその言葉のとおりに、ガン発見のあと、まっすぐ自分の死を見つめて、死と向き合う人間の精神がどのように揺れ動くかを、ひとすじの感傷もまじえず、出来合いのどのような死生観にも依拠せず、恐ろしいほどに明晰な言葉で書き記した。
死を前にしてのこの平静。どのようなものであれ、知性を曇らせる可能性のある「逃げ道」を峻拒する、徹底的な理性主義には脱帽する他はない。
先生はガン患者の心情をこんなふうに書いている。

「ふつう、『ふだんは(そのことを)忘れている』という単純なやり方だけでも十分効果的である。それだけでは心許ない場合は『何かの間違いかもしれない』とか『今の療法がたまたま奇跡的に効くのでは』とかの空頼みめいた希望にすがる。いずれも現実直視からはどんどん離れていくが、同時に絶望からも遠のくので心身にはよいはずである。免疫機能も低下しにくいので、少しは長生きできるかもしれない。われわれの心や身体は、このように自らを防御する仕組みを備えているから、油断すると必ず不都合ないし脅威的な現実を歪曲し、あるいは糊塗してしまう。心のあちこちに夢と希望が生まれる隙間を作り始める。
私は、これを自分に許すことができない。認識はすべからく禁欲的でなければならぬ。たとえそのために精神衛生を損ねて免疫機能が低下し余命を縮めることになるにせよ、現実と願望を混同したくない。わたしは『認識の鬼』でありたいのだ。」(164頁)

頼藤先生は自らを称して「認識の鬼」とした。ずいぶん温和な「鬼」ではあるけれど、たしかにおのれの知性へのこの絶対的信頼はほとんど「鬼気迫る」ものがある。
「おのれの知性への絶対的信頼」というと、誤解する人がいるかもしれないけれど、比喩的に言うと、それはポンコツ自動車に乗っている律儀なドライバーみたいなものである。
自分の車だから、どのへんにガタが来ていて、どのへんがうまく作動しないのか、運転手本人は熟知している。だから、直し直し、だましだまし、おどしたりすかしたりしながら、1キロでも「先へ」進むように運転する。
車をどこかの修理工場に預けて、「代車」で旅を続けるということもあるいはできるのかもしれない。場合によれば、通りすがりの調子のいい車にヒッチハイクで乗せて貰ったり、特急電車に乗り換えたりすることもできるのかもしれない。
現にそういうことをしている人もいる。
けれど、「おのれの知性への絶対的信頼」とは、自分の運転している自動車がどんなに不調であっても、そこから絶対に「降りない」ということである。
どれほど息も絶え絶えになろうとも、自分であつらえた「燃料」を喰って、自分の「タイヤ」で地面を踏みしめながら、前に進む限りは、「自分の車で行く」というのが「鬼」の覚悟である。

これは知的活動についての比喩だけれど、それと同じことを自分の身体臓器についても頼藤先生は貫徹しているように私には思えた。
ガン細胞は先生にとって「闘病」の敵手ではない。
「闘病」という発想は、病気の原因を有限の「有害」なファクターに限定しようとする発想と同根のものである。
外来の「邪悪なもの」が自分の身体に侵入し、破壊する、という病気のとらえ方は「精神衛生上」は好ましいものである。(それは『野生の思考』の冒頭でレヴィ=ストロースが証明してくれた。)
それは出来合いの「自分の病気についての物語」をもって自分で自分を騙しているということである。
先生は「現にガン細胞を体内にかかえて生きる身として」、いわば、「身内」として、自分のガン細胞を捉えようとする。それは遺伝的に DNA についた傷かもしれないし、長年の生活習慣や、発ガン性物質にあふれた現代社会で生きてきたことの結果かもしれない。いずれにせよ、それは外からやってきたものというよりは、「身内」に根拠をもって成長してきたものだ。
だから「身内ゆえ」の温情をもって「最後は宿主と心中するようなかたちで共に滅びてくれるのである。」
そのような「病との共存」(より正確には「病との共滅」)を先生は「養生」という言葉に託している。
これもまた別のひとつの「物語」なのかも知れない。
しかし、私はこの物語の方が好きだ。
病との「共犯」という見方で、おのれの生と死をとらえる考え方のうちには、「鬼」という言葉とはうらはらな、「暖かみ」がある。
病んだ身体であっても、それが「私の身体」である限り、できる限り慈しむこと。それを決して「モノ」のようには扱わないこと。
限界のある知性であってもそれが「私の知性」である限り、それに最後の最後まで「仕事」をしてもらうこと。誰か他の人に自分に代わって考えて貰うという道を選ばないこと。
この二つのみぶりはおそらく頼藤先生にとっては、同じ一つのことだったと思う。