7月19日

2001-07-19 jeudi

「新しい歴史教科書を作る会」の扶桑社版の教科書を採択した栃木県の採択協議会決定が地区内の市町村の教育委員会で次々と否決された。
ことの順序として、これがいちばん「まっとう」なやり方だと私は思う。
少し前に高校の社会の先生と話す機会があったとき、「あの教科書を採択するところありますかね」と尋ねたら、「ほとんどないでしょう」という答だった。私立の学校では採択するところが少しは出るかも知れないが、公立校ではたぶんないだろう、それくらいには現場の教員たちの力と良識を信じて欲しいということだった。
ルールと運用ということの、これは健全なあり方だと私は思う。
私自身は「作る会」の歴史観は愚劣なものだと思っているし、西尾幹二の『国民の歴史』のルサンチマンの深さにはげんなりした。だが、どれほど愚劣であろうとも、おのれの信念を語り、出版する権利については、たとえ諸外国がその発禁を求めても、これを擁護すべきだと思う。そして、彼らに自由に発言させた上で、そのような考え方を私たちは「採らない」というかたちで実質的に否定することが民主的な言論のあり方だと思っている。
韓国政府は日本政府が文部行政に介入し、超法規的措置をもってこの教科書を韓国の修正要求通りに改訂しなければ外交問題にするという強硬姿勢を打ち出している。この韓国政府の要求に合理性を認めるものは、「作る会」の教科書を批判している人たちの中にも少ないだろう。
もしも、日本政府がこの要求を政治判断によって呑んだら、「作る会」は民主主義と憲法が保証する言論出版の自由の名において「受難する正義」の立場を獲得することになる。だから、いま韓国政府の干渉をいちばん喜んでいるのは「作る会」の人々である。このような干渉を導き出すことによって、日本国内に韓国への敵対感情が醸成されることは「作る会」にとっては願ってもない展開である。韓国にもそのことを理解している人はいるはずである。
原理的には、言論の自由を認め、運用面において、言論のもたらすイデオロギー的影響を無害化する、というのが民主主義的なすすめ方だと私は思う。
もちろん、このようなトラブルが起きる最大の理由は、国家による教科書検定という制度そのものにある。
「検定を通した」ということはそのまま政府がそのようなイデオロギーを「承認した」という意味である、と韓国政府が解釈するのは、その意味で反論を許さない。
現に、西尾幹二や藤岡信勝が「私的に」出版している本の修正や発禁を韓国政府が求めているわけではないからだ。「検定済みの」教科書だからこそこれほどまでに強い拒否反応を示しているのだ。
この問題へのいちばん合理的な回答は国家による教科書検定制度の廃止である。
どのような「歴史観」にも国家はかかわらない、というのがこのような問題で国家間の友好関係を傷つけないための唯一の「正解」であると私は思う。
その正解が出せないあいだは、とりあえず栃木の人々がしたように、運用面でしのぐほかはないだろう。
そのような日本の民主主義の「成熟」を韓国の人々はもう少し信じて欲しいと私は願っている。それを望むのは、歴史的経緯からして無理なことなのだろうか。

と、書いたあと、夕刊を見たら、朝鮮史専門の吉田光男東大教授が同じ問題を論じていた。
吉田さんの力点は、この韓国サイドから修正要求には、複雑な思いが込められているということにある。吉田さんによれば、韓国の人々のすべてが日本非難の大合唱に唱和しているのではない。

韓国の 14 の歴史学会は「日本の歴史教科書の改悪を憂慮する声明」を今日発表したが、その趣旨は「『歴史教科書問題』が『日本に対する否定的な認識を再び拡大させる契機』となることを憂慮し、『日本の歴史教科書が偏狭な自国中心主義から脱皮し、国際理解の精神で人類の和解と共存を志向する』ように要望している。ここに見られるのは、日本に対する期待と連帯感である。難詰に満ちているように見える韓国の『日本歴史教科書歪曲対策班』の修正要求も、『日本が隣国と平和に交流協力してきた事実』を軽んじてはならないと強調している。韓国の教育者や研究者たちは、日韓がより友好的で親密な関係を築くためには歴史をどのように考え教えるのかと日本に問いかけ、ともに歩んでいこうとしている。」

これを読んで、私は少し救われた気持になった。
なかなか東大教授もよいことを言うではないか。
そして新聞記事の顔写真を眺めているうちに、温顔禿頭の吉田教授が「吉田のおやじ」であることに気がついた。
「吉田のおやじ」は 1970 年入学の東大文 III の私たちのクラスでの、彼の愛称である。
18、19のガキばかりだった私たちのクラスで、吉田さんはきわだった年長者であった。(本人の説明を信じるならば)吉田さんは高校を出たあと、うどん屋をやって家族を養っていたために、5年ほど遅れて大学に進んできたのである。
受験勉強が終わった爽快感で、すっかり気が緩んで毎日遊び暮らしていた私たちの中にあって、「吉田のおやじ」は、学問的なものに飢えていたように、ずいぶんまじめに勉強する人だった。
だから、私たちが早速「安保粉砕クラス・スト」を始めて、授業をやめてしまったのでなんとなく迷惑そうな顔をしていた。(そのわりにはよく一緒に麻雀をしたが)
私はそのクラスで最も態度の悪い学生だったので、そのうちにクラス内には「反内田グループ」というものが自然発生的に結成された。たしか「吉田のおやじ」も、亡き佐々木陽太郎くんや国文学者になったセキヤさんやマーボーたちと麻雀をしながら、「ウチダにはいずれ天誅が下るであろう」と語り合っていたはずである。(「天誅がくだるであろう」と予測するだけで、別に自ら手を下すわけではないあたりが、みんなよい人たちである。)
あれから 30 年。クラス一の異才だった佐々木君も、クラス一元気な少年だった久保山裕司君も夭逝した。金歯を光らせていつもにこにこ笑っていた「吉田のおやじ」は堂々たる東大教授となって、日韓関係の明日について、私たちに希望を語っている。
その言葉に感動しながら、私はなんだか感慨無量である。