7月15日

2001-07-15 dimanche

あ、暑い。
暑いせいで、眠りが浅いのだろうか。朝起きて「うーん、いっぱい寝て気持ちがいいなあ」という感じにまるでならない。
「ううう、だるい」とうめきながらベッドから転げ落ち、だらだらと朝御飯を食べ、新聞を読んでいるうちにどんどんだるくなってきて、そのまままた出てきたばかりのベッドに戻って、ひるまでぐーすか寝てしまう、という世間のサラリーマンが聞いたら、怒り狂うであろうような自堕落な毎日送っている。
私だって申し訳ないと思っている。
こんな自堕落な暮らしぶりでは天罰が下るのではないかと怯えるころだってある。
ちゃんと6時ころにはね起きて、きちきちと家事をこなし、8時には机に向かってこりこりと原稿を書くような人生を私だって望んでいるのである。
しかし、この暑さと湿気が私の気力を洗いざらい奪い去って行く。
今日は、これから会議をひとつ、試験をひとつ、面接をひとつ、歯医者に寄ってから、能のお稽古である。果たして、お稽古から帰ったあとに、机に向かってサルトルを読み続ける気力が私に残っているであろうか。

でも、読み出したらけっこう面白いんだな、これが。サルトルのフランス語は教科書の例文に使いたくなるような、思わず大向こうから声をかけたくなるような名文句が一頁に一回くらい出てくる。これはなかなかたいしたサービス精神だと思う。
なんで、いまごろサルトルの『文学とは何か?』やボーヴォワールの『第二の性』なんか読んでいるかというと・・・その話は前にしたからもういいね。
私自身はサルトルという人の思想内容はあまり好きではないけれど、この人の書き方は好きだ。書き方が好きということは、他人に向かうときの構えが好きということである。たぶん、会って話をする機会があったら、好きになってしまっていただろう。
レヴィナス老師もサルトルさんはいい人だと言っていた。(どこまで本気か知らないけれど)
サルトルのいちばんいい点は「金離れがいいところだ」というのが老師のご意見である。
人間の倫理性は「金、貸して」と言ってきた人間にたいしてどう接するかで決まる、というのが老師のお考えである。
「被抑圧人民との熱い連帯」を呼号している人間が、身近の困った人間に対して無慈悲であるという例はいくらでもある。老師はこういう人間をまったく信用しない。
サルトルのいいところは「困っている人は気の毒だ」と心から思っているので、被抑圧民族もとなりのおじさんも困っている人はみんなひとしなみに「気の毒」になってしまう無原則的にオープンハーテッドなところである、と老師は書いていた。
「お先にどうぞ」と「金なら貸すぞ」がレヴィナス老師の示す「二大倫理」である。
レヴィナス倫理学というと「他者」がどうたらとか「応答責任」がどうたらとか、いろいろと小うるさいことが書かれているが、要するに老師が私たちに実践を求めているのは、この二つに尽きる。そのほかのはすべて枝葉末節にすぎない。
これは年期の入った知見であると私は思う。大人にしか言えない言葉だと思う。というのは、「お先にどうぞ」というためには「すでに満ち足りている」必要があり、「金なら貸すぞ」といえるためには「貸すほど金をもっている」必要があるからだ。
子どもには絶対に言えない言葉である。不幸な人間にも、怨みがましい人間にも、欲望に取りつかれた人間にも言えない言葉である。
私もこれを目標にがんばりたいと思う。

そのためには幸福でお金持ちである必要がまずある。
前者はクリアーできそうだが、後者の条件がちょっと。