7月14日

2001-07-14 samedi

あ、暑い。
地球の温暖化は本格的に進行中のようである。
あるいは記憶の改変なのかもしれないけれど、どうも私が子どものころの方がずっと夏は涼しかったような気がする。

子どものころ、私の家の前は「ダート」であった。
私は東京大田区の下丸子というところで生まれ育った。
先日、パソコンに向かっているときに、「どきっ」として、いったい何に「どきっ」としたのか、あたりを見回したら、プリンターの横に置いてあったインクカセットの箱に「キャノン株式会社・東京大田区下丸子・・・番地」と書いてあった小さな文字に驚いたのであった。
そういえば、私の家から歩いて5分くらいの多摩川の河原にキャノンの本社があった。私は子どものころ毎朝まだ誰も歩いていないキャノンの通勤路を通って河原に犬と散歩に行っていたのである。
父親は「キャノン」の話がでるとよく「タツル、なんで『キャノン』という社名になったか知ってるか? あれはね、創業者が観音信仰の人で、社名を「カンノン」のつもりで Canon と表記したのだよ」と教えてくれた。
ブロニカというカメラメーカーがあった(もうないかもしれないけど)。ブロニカの創業者のお孫さんが高校時代の友人の新井啓右くんで、彼から「あの社名は爺さんの名前が善三郎なので、カメラの商標を『ゼンザブロニカ』としたのを縮めたんだんだよ」と教えたもらったことがある。
ブリジストンは創業者が「石橋さん」、サントリーは「鳥井さん」、トヨタは「豊田さん」、ホンダは「本田さん」である。もうそういう起源はだんだん忘れられてゆく。誰も覚えていないであろうから、後世のためにここに記しておく。

えーと、何の話だっけ?
すぐに話が脇へ逸れるのが老人の癖である。
そうそう、下丸子の私の家の前は「ダート」だったという話である。
家の前がダートであるということは、夏は水撒きすると、1時間くらいは涼しい風が家の中に吹き込んできたのである。なにしろ自動車が一時間に一台くらいしか通らない。だから水撒きすれば、ずいぶん長いあいだ泥道は濡れたままだったのである。
舗装のない道は、春になるとタンポポやレンゲが咲き、梅雨時には小学生の膝まで浸かりそうな深い水たまりができ、冬になると「霜柱」と「氷」が道路を埋め尽くした。だから、小学生だった私たちは霜柱を踏み砕き、氷を割りながら学校に行くので、登校にすごく時間がかかったのである。
それが昭和30年代の東京都区内の道路事情である。
私の家の庭には葡萄棚があり、柿の木があり、イチジクの木があり、葡萄とイチジクは私たちのおやつになった。(葡萄は酸っぱかったけれど、イチジクは美味しかった。)
昭和30年代は東京のサラリーマンでも庭の果樹がおやつになるような生活をしていたのである。それって、なんだかいまよりずっと豊かなような気がする。

というわけで、21 世紀最初の夏はめちゃ暑い。
うちのマンションのすぐ裏はもう 100 メートルほどで六甲山系である。裏が山なのに、少しも山から風は吹いてこないし、海からもそよとも風は吹かない。吹いているのかもしれないけれど、そこらじゅうのマンションからの冷房の排気のせいで、街全体が蒸し暑いのである。(私だって自分の家からの冷房の排気の熱でベランダにはいられない。)
これって、何かおかしくはないだろうか?
御影山手近辺の住民全員が冷房を切れば、地区全体の気温は2度くらい下がるのではないか。六甲からの風も家に吹き込むのではないか。

21 世紀の日本は「滅びの時代」に入るであろうと私は繰り返し予測している。
それを私はむしろ楽しみにしているからである。
昭和30年頃の日本に戻ったら、私たちの生活はどれほど快適だろう。
冷房のある家なんか東京の私の家の周りにも一軒とてなかった。
だって、必要ないんだもの。
暑かったら水を撒けば 30 分間は家の中に涼風が吹き込んだんだから。
どの家もお父さんたちは午後6時半には家に帰って、お風呂にはいって、ご飯を食べたあと、庭に縁台なんか出して団扇でぱたぱた扇ぎながらビールを呑んで「ぷふー」なんて言っていた。

みんな仕事しすぎだと私は思う。
生活水準を上げることに必死すぎると思う。
もっとのんびりしてどうしていけないんだろう。