7月12日

2001-07-12 jeudi

暑い。
暑いとか寒いとか、私はうるさく口にするが、これはご存じのとおり、温度が高いとか低いとかいう事実認知的なことを言っているのではない。
「暑い」というのは遂行的な言明であって、「このように暑いので、私は人生全般にたいしてたいへんなげやりな気分になっているので、関係者一同はそのおつもりで」ということを宣言しているのである。
私に「レイザーシャープなご回答」とか「オープンハーテッドなご歓待」とか、そういうものを期待している方は、失望する確率がたいへん高い季節になりましたね、ということを申し上げているのである。

暑いので、あまり頭が働かない。
このところずっとレヴィナスのエロス論でひっかかったままである。
どうしてレヴィナスはフェミニストが「鬼の首でもとったように」喜びそうなことを書いてしまったのか。
あれほど周到な知性がフェミニストのロジックを知らないはずがない。
ああ、わからん。老師はいったい何を考えておられたのであろう。
じっと読んでいるうちに、もしかするとこれは何かの「ひっくり返し」ではないか、と思いついた。
そう言えば、レヴィナスという人はなんでも「ひっくり返す」。
有名なのは『実存から実存者へ』であるが、これはハイデガーの「存在者から存在へ」をまるごとひっくりかえしてみせた「逆-存在論」とでもいうべき論理構成をもった思想であった。
フッサールの場合も、その現象学の基本概念である「志向性」を「視覚に傾斜したテオリア主義」とみなし、「非志向的現象学」あるいは「非テオリア的現象学」というまったく逆転した現象学のアイディアを提出してみせた。
ではエロス論でレヴィナスは何を「ひっくり返した」のか?
私はここで「はた」と膝を打った。
イリガライのレヴィナス批判なんか読んでしまったので、つい「いま」を起点にしてレヴィナスのアンチ・フェミニズムを読み解こうとしていてあたまが混乱してしまったが、考えてみたら、『全体性と無限』を執筆していたのは 1950 年代のことである。その時代に「フェミニズム」を代表する著作といったら、あれではないか。

そう、ボーヴォワールの『第二の性』である。これが 1949 年刊行。

さっそく本棚の奥からごそごそと取り出して読んでみる。
案の定というか。やはりレヴィナス老師のエロス論は『第二の性』を「ひっくり返した」ものであった。
レヴィナス先生のいうことはフェミニズムにもとるとフェミニストが怒るのも当たり前である。だって、先生ははなからボーヴォワールの書いたことをわざわざその言葉遣いまでまねて、その上でぜんぶひっくり返してエロス論を書いたんだから。

ボーヴォワールの主張は「女性的本質などというものは存在しない」というひとことに尽くされる。
レヴィナスのエロス論の主張は「女性的本質というものがある。ただしこれは『存在論的カテゴリー』ですけど」というのに尽くされる。

ほぼ同時期にレヴィナスはサルトルの『ユダヤ人問題についての省察』についても痛烈な批判を加えていた。

『ユダヤ人問題』におけるサルトルの主張は「ユダヤ的本質などというものは存在しない」というひとことに尽くされる。
レヴィナスのユダヤ論の主張は「ユダヤ的本質と言うものがある。ただしこれは『存在論的カテゴリー』ですけど」というのに尽くされる。

同じ実存主義的スキームで社会問題一般を論じるサルトル=ボーヴォワール・ペアに対してレヴィナス老師はまったく同型のロジックを以て同時に反論したのである。
つまり、サルトルのユダヤ人論への老師の批判の構造をたんねんに再構築すれば、おのずと老師のフェミニズム批判の構造も浮かび上がると、こういう仕掛けになっていたのである。
なるほど。

「さすがお師匠さまでございますな」
「ふふふ、そう簡単に底が割れてはね、わしもつまらんじゃろうが」
「しかし、お師匠さまもお人が悪い。ボーヴォワール、大嫌いなものだから、あえて一行も『第二の性』から引用しないし、反論しているそぶりさえみせないで」
「あの二人ともね、ほんとは、わし嫌いなのじゃ。なんかさ。生活者の実感みたいなものがまるでないでのう」
「生活者ですか・・・」
「ご飯を食べたり、仕事をしたり、お金をためたり、家庭をつくったり、子どもの成長を目を細めてながめたり・・・そういう生活の、なんじゃろかい、現場のささやかな哀感とヨロコビみたいなものに基礎づけられた哲学ってのがほんとは大事じゃろうと思うわけよ、わしとしては」
「でもお師匠さまの書くものってまるで生活実感ないみたいに言われてますけど」
「ふふふ、若いもんには分からんじゃろがね。わしの書くものは一行一行一語一語すべて生活実感の厚みの上に構築されとるんじゃよ。ま、熟読玩味してごらんよ。では家元は帰るぞ」

ああ、お師匠さまー。