7月7日

2001-07-07 samedi

ビジネスカフェから『Espresso』の最新号が来る。
毎号このビジネス誌に掲載される平川くんのエッセイを私は楽しみに読んでいる。
というのは、私がこの世でいちばん好きなことの一つは「新しい言葉」を学習することだからである。
平川くんは前歴が現代詩人なので、「言葉の現実変成力」がいかほどのものかは熟知している。同じ事象を別の言葉で言い表せばそれはもう別の事象となる。だから、彼はある概念の見落とされている含意を強調したいとき、しばしばそれを類義語に言い換える。
たとえば、彼は「企業家」を「アントレプレナー」と表記する。
この言葉は私をどきどきさせる。というのも、駿台仕込みの私の英語の語彙に「アントレプレナー」という言葉はないからである。
「事業家」は enterpriser 「エンタープライザー」である。
「アントレプレナー」にいちばん近い語はフランス語の entrepreneur「アントルプルヌール」である。
つまり、この語はおそらくフランス語からアメリカのビジネス・ヴォキャブラリーに入ってきたということである。
近過去のどこかに、「エンタープライザー」の使い古された語感を嫌って、外来語を改作して entreprener と表記したアメリ人がいたのである。そして、平川くんはそのアメリカのビジネスマンの言語感覚に反応して「アントレプレナー」をあえて日本のビジネス・ヴォキャブラリーに導入したのである。私はかように推理する。
さて、そのような詩人的な言語戦略に基づく平川くんのビジネス・エッセイは例によってかっこいいフィニッシュを決めている。引用しよう。

「最近わたしの友人たちに『知性』とは何かと問うてみました。もちろん、昨今のナレッジマネジメントという『流行語』が念頭にあってのことですが、30 名程度のビジネスの最先端で活躍する友人たちから返ってきた答えはほとんど『人間力』『おもいやり』『問題解決能力』といったなつかしいものでした。
わたしにとっての『知性』とは『自分が何を知らないのかということを知っていること』だと考えています。あらゆる知性というものがその内部に『自己否定の胚珠』をもっていることが、『運動する知性』にとって重要なことであると考えています。
『運動する知性』とは、自己を相対化し、他者と連動し、現状を変革してゆくエネルギーの源泉といった意味で使いたいと思っています。
かつて、会社の寿命は 30 年という言葉が流行しましたが、その真理は今も変わらないと思います。いま、企業は全力で自社のコンピタンシーを確立しようと資源を集中していますが、こんなときこそ明日のコアコンピタンスを育ててゆく必要があるのではないでしょうか。」(平川克美、「二律背反としてのインキュベーション」、『Espresso』第6号、2001、p.9)

「ナレッジマネジメント」も「コンピタンシー」も「コアコンピタンス」も私の語彙にはないビジネス用語である。しかし、それらが何を言おうとしているのかは何となく分かる。
私に分かるのは「コンピタンシー」は「コンピタンス(能力)」よりも最後の「シー」の部分だけ語感が「トンがっている」ということである。
言葉が「トンがっている」ということがある。それは言葉が微分的な運動性を持っているということだ。
例えば、私たちは「方法」より「方法論」に、「モード」より「モダリテ」に、difference よりも differance によりつよい運動性を感知する。
そのような言葉は、ある事態を「静止態」においてではなく「運動態」において表現したいというときの勢いが選ばせるのだ。
その語感と同じ考想がこのテクストをも貫いている。
それは「運動せよ。足を止めるな」ということである。
詩とビジネスと武道の経験から平川くんが獲得した洞見がそれであると私は思う。

村上龍の『タナトス』を読み終えた。
村上龍は「才能」にこだわる作家である。
今回の小説のテーマの一つは「才能がない」とはどういうことか、という問いである。
「才能がない」人間とは「自分には才能がない」という事実を直視できない人間のことである。(おや、いまさっききいたような)
彼らは「努力」によって才能の不足をなんとか埋め合わせることができると思っている。
反対に、「才能がある」人間は、自分にはどのような才能があり、どのような才能が欠けているかを知っており、それが「ある」ことも「ない」ことも、個人的努力でどうこうできる水準の問題ではない、ということを知っている。
「才能」というのは「努力できること」を含んでいる。
ある活動のためにいくら時間を割いて、どれほどエネルギーを注いでも、まったく苦にならないで、それに従事している時間がすみずみまで発見と歓喜にみたされているような活動が自分にとって何であるかを知っていて、ためらわずそれを選びとる人間のことを私たちは「才能のある人間」と呼ぶのである。

私はこのような村上龍の意見には全面的に賛成である。
才能は「アウトプット」で測るのではない。
その活動から引き出した「快楽の総量」で測るのである。
快楽の総量を測るというのはむずかしい作業だ。
多くの人は自分がどれくらいの快楽を得ているのかを言うことができない。
そもそも自分が快楽を得ているのかどうかさえ不確かなのだ。
自分だけの「快楽の尺度」を持っていない人間は「快楽」と「欲望の充足」を区別することができない。
快楽は本質的に個人的なものであり、欲望は本質的に模倣的なものである。
私たちは他人の欲望を模倣する。
私たちが何かを欲しがるとき、ほとんどの場合、その理由はそれが「他の人の欲しがっているもの」だからだ。
しかし、模倣欲望には終わりがない。
誰かが何かを欲しがる限り、その欲望は私たちに感染するからだ。
私たちが「持っていないもの」はそれこそ無数にある。その「どれ」が欲望の対象として前景化するかはそのつど完全に偶然的である。だから、原理的に、私たちの欲望は永遠に不充足のままである。

それに対して快楽は個人的なものである。
それは欲望の充足のような集合的なゲームとは成り立つ場所を異にしている。
欲望は模倣的であるからそもそもその起源は私のうちにはない。だから、それが充足されたからといって、「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。
模倣欲望の充足とは、欲望の対象が前景から後景に退き、意識されなくなるというだけのことである。私たちが欲望するものはすべて「それはもう欲しくなくなった」と言うだけのために欲望されているのである。
快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。
快楽の対象がたえず意識に前景化されていること、それ自体が快楽の目的である。
快楽は何かの結果ではない。プロセスである。
快楽とは「快楽の追求」それ自体が十全な快楽をもたらすような活動のことである。
快楽を求める活動それ自体が快楽の完全な成就であるような活動が「自分にとって」何であるかを言える人間を私たちは「快楽の尺度」を持っている人間と呼ぶ。
快楽と欲望の充足を取り違えている人間にはおそらく快楽は訪れない。

村上龍はキューバの人間と日本の人間を比較して、キューバの人間は快楽をどう得るかを知っており、日本人は知らない、という書き方をする。
なぜ日本人は快楽を知らないのか?
それは日本人は「モデル」を求めてしまうからだ、と村上は書いている。
だから快楽を得る仕方についてまで「あるべき快楽の享受法」があると思い込み、それを学習してしまうのだ。そして、「あるべき快楽」からの減点法で、いまの自分の快楽の「程度」を計量するようなみすぼらしいまねをするのだ。
なるほど、日本人はダメだ。キューバの人はたいしたものだ。
だが、村上龍のトリックに簡単にひっかかってはいけない。
村上龍を読んで「よーし、おれもキューバ人の生き方に学ぶぞ」と決意するようなバカこそ、村上が嗤う「モデルを求める」日本人そのものだからだ。
村上龍は『タナトス』なんてゴミ箱に棄てろよと言っているのである。
「おれはいい気持ちだぜ」なんてことを言っている人間の書くものなんか読むなと言っているのである。
「おれの書いたものなんか読むなよ」と言われて、あわてて読むのを止めるような寂しいまねをするなよと言っているのである。