関係各方面にいろいろとご心配をおかけしましたが、BBS で展開されておりました論争は最初にメールをくれたTさんから「仕切直しで」というご提案がありまして、あらためて「ごめんください」「はい、どなた?」というところからやり直すことになりました。
ウチダも人の子、煩悩の犬でありますので、知らないひとからいきなり「批判」されるとつい「売り言葉に買い言葉」、性格の悪さを剥き出しにしてしまいます。
しかし狭量ではあるが、根に持たないウチダとしては、「さっきのなしね」といわれれば、「うん、じゃ、はじめからね」とものわすれのよい小学生のように応接するのであります。
とはいえ、こういう雑なまとめ方をするとまた問題を起こすかもしれないので、このへんにしておきましょう。
しかし、この機会に、私のことを「レヴィナス主義者」と思っていらっしゃるみなさんに、ぜひご確認いただきたいことがあります。
巷間流布しております説によると、レヴィナス主義者たるものは他者からの呼びかけに全身全霊をもって応答する責任がある、ということになっております。
ご存じのように私はこのような考え方をしておりません。(『ためらいの倫理学』で戦後責任論者について、とくにしつこく違いを強調したのはこの点です。)
私に応答を余儀なくさせる呼びかけもあるし、私が貝のように黙り込む呼びかけもあるし、私が雀躍して応ずる呼びかけもあるし、私が怒り出すような呼びかけもあります。
それらの呼びかけと応答は呼びかけるものと答えるもののふたりを、「主体として」同時的に形成しつつ、生起する「一回的でユニークな出会いの経験」です。
その出会いの経験を友好的なものにするのも敵対的なものにするのも、「ひとえに主体の決意と自己審問の徹底性と倫理性の高さにかかっている」という主体全権説はウチダの取らないところであります。
もちろんその逆に、すべての出会いの経験は「他者が主導し、『私』はひたすら他者に曝露されるだけなのである」という「他者全権説」もウチダは退けます。
「私」と「他者」が「出会い」以前にあらかじめ自存し、その出会いの様態や形質は、それらの二種の主体のいずれか一方の決意や工作によって専一的に決される、という「主体先在説」こそレヴィナス先生がきっぱりとしりぞけたものです。
「出会い」の以前には「私」も「他者」もなく、「出会いの経験そのもの」がほとんど事後的に、そこで出会ってしまった「私」と「他者」を造形してゆく、という時間の転倒、それがレヴィナス先生が「アナクロニズム」と呼んだ時間の逆流のあり方です。
と、はなせばながくなるので、ぜんぶはしょりますが、要するに私たちがある呼びかけにどう応じるかについての「ガイドライン」とか「決疑論的チェックリスト」などというものはありません。
私たちはそのつど、「出会ったあとになって」、そこで誰と誰が出会ったのかを知るのです。
「でも、それって要するに『出たとこ勝負』ってことじゃない? なんかウチダってさ、レヴィナス先生を引き合いに出して、単に自分が無原則に生きてることを合理化してるだけなんじゃないの?」
ま、まさか。そんな。はは、ははははは。ははははは。よしてくださいよお。(と冷や汗をぬぐいつつ退場)
(2001-07-02 00:00)