23日の日記に「読みたい人は読む、読みたくない人は読まない。それで私はかましまへん」という趣旨のことを書いたら、「それはないでしょう」という抗議のメールが来た。
「それはいかん。おまえの言うことは間違っている」というのであれば、(同じ主張を繰り返すことになるが)どうかそういう方はあちこちでかなう限り「ウチダはまちがっている」ということを主張されて、ウチダのテクストをメディアから一掃し、それが世にもたらすであろう害の芽を摘む方向に努力されるといいかなと思う。
晶文社の安藤さんが送ってくれた『大航海』という雑誌では宮崎哲弥が3頁もつかって私の本のもたらす害の芽を摘むべく健筆をふるっていた。
読者たちのあいだからどうやってより多くの承認を獲得するかというかたちでさまざまな理説が競合する言説市場のあり方を私は健全なものだと考えている。その点では宮崎哲弥のスタンスはごく健全であると私は思う。(ただし、「宮崎哲弥がこれほどまで熱心に批判するのはどんな本なんだろう」という「まずいもの食いたさ」系の関心をそそられた読者が私の本を購入してしまう危険もある。ひとごとながら心配である。)
だが、そう考えない人もいる。
そう考えない人はどう考えているのか。
興味深い指摘だったので、ケーススタディとして、そのメールを取り上げてみたい。長いので、関係のあるところだけ抄録する。
「(前略)先生は続けて、誤りを指摘してくれ、言い分がもっともなら直すとおっしゃってます。こういう態度、私は90年代に随分たくさんの人から聞きました。そして1度某所に抗議したことがあります。そんなだから駄目なんだ!と。先生のおっしゃる市場の淘汰圧は、私自身の人生経験とは全く相容れません。(中略)
先生や柄谷さんのような偉大な思想家を研究し、世間に知られ、ロジックに通じているであろう方々が、言葉の市場に性善説を仮定して後は野となれ山となれでは、私は賭けたいですが、世の中は悪くなります。
先生は確かに市場に対する働きかけの努力を唱えておられます。しかし、先生の論法や、柄谷さんの論法とは、まさに市場による結果が主張の善なり真なり、趨勢なりを保証するというものです。(中略)
私の考えを簡潔に述べますと、先生のような人は、市場の性善説に立つことなくして、これをよく読め、ためになることが書いてあると、虚勢でもいいから言うべきだと思います。そして読者がためになると思えるまで、著書にとどまりつづける覚悟というものが必要ではないでしょうか。柄谷さんの著書は、そういう態度は皆無でした。好きに読めです。
しかし、先生方は曲がりになりにも、先生なわけです。市場などと無責任なことをおっしゃらず、先生の言うところの『売り物』を、先生の言うところの『自己責任』によって、人は知るべきなんだと言ってみたらいかがでしょうか。(後略)」
「市場の性善説」というのはなかなか面白い言い方だと思う。
言われてみればその通りで、私はたしかにこの人の言うように「市場の性善説」に立っている。
そして、「市場の判定力」を信じることが文字媒体をつかってひろく読み手にメッセージを送るものの最低限の「モラル」だとも思っている。
私は自分のテクストの読者が理性的な判断力を持っており、「より正しい推論」と「それほど正しくない推論」を見分ける知性を備えているという前提に立って書いている。
自分以外は世界中バカばかりだと怒り狂っていたかのニーチェでさえ、『なぜ私はかくも賢いのか?』というような題名の本を出し続けていた。それは彼が読者たちから「ニーチェさん、あんたはたしかに賢いよ」という「承認」を求めていたということを意味している。つまり、ニーチェは「市場の承認」という審級が(さしあたり完全に機能はしていないまでも)適切に機能すべきだと考えていたのである。
時代にあまりに先んじていためその著作を a selected few に献じるほかなかったスタンダールでさえ、「選ばれたる読者」が「百年ののち」に自作の真価を理解することを疑ってはいなかった。
私はニーチェやスタンダールよりははるかに凡庸で、はるかに控え目な人間である。その私が「市場の判定」という審級を軽んじなければならない理由がどこにあるのか、私には分からない。
もちろん、世の中には自分のテクストの読者は自分の書くものの理非の判断ができるほどの知性がないと思っている書き手はいくらもいる。そういう前提で書かれたテクストも山のように存在する。
それは「プロパガンダ」と呼ばれる。
私は「プロパガンダ」を読むのが嫌いである。そこには「読み手に対するレスペクト」が感じられないからである。居丈高に説教しよう、もみ手をしながらおもねろうと、友だちづらしてにじり寄ってこようと、そこには読み手を見下し、私利のために利用しようという下心が透けて見える。
私は読者の批判的知性を信じている。だから読み手の判断を尊重する。
もちろん読者が誤る可能性もある。
しかし、読者が(私から見て)「正しい意見」を棄て、(私から見て)「間違った意見」を採用したとしても、それは彼の神聖不可侵の権利であり、私は彼の「誤りうる自由」を含めて、その判断の自由を尊重しなければならない。
これについては『ためらいの倫理学』の一節をそのまま引用する方が話が早い。
「ある政治的私見が公共的な『正しさ』の準位に達するために必要な唯一の条件は、『政治的な自由』によって支持されるということである。つまり、自由な考え方をすることが許され、自由な発言をすることが許される人々に対して働きかけ、その人々を集めて多数派を形成するということである。選択する人々が『政治的に自由であること』、それだけが『政治的正しさ』の正統性を保証する。『自由な精神』に支持された『政治的正しさ』だけが合法である。仮に結果的に『正しく』ても、自由を損なわれた精神によって選び取られた私見は合法ではない。」
「誤り得る自由」は私たちの基本的人権の一部である、と私は考えている。
「自由である」ことのうちには「正しいと信じて、正しくないことをしてしまう」自由も含まれていると私は考えている。そして、「自由であること」のうちには、当然ながら「私とまったく違う意見を述べる」自由も含まれている。
「私の意見」と「私とは違う意見」の両方を徴していずれに理ありとするかを判定する権利は、私にもその人にもなく、「読者」たちに、「市場」にある。私はそう考えている。
私はできるだけ多くの人に承認されたいという素朴な願いを抱いている。だからこそ「できるだけ多くの人に承認されたい」と言明してはいるが、「すべての人は私を承認すべきである」という言い方は決してしない。
そう言った瞬間に、私は「教化する側」に、読者は「教化される側」に配置されてしまうからである。
そのような口先だけの権力関係でさえ、私が求める「自由な精神による自発的な承認」の可能性を損なうには十分だ。
これは私が半世紀生きて生きた経験から得た結論である。
しかるに、市場には判定力がないと主張するこの人はこの人で「私自身の人生経験」からものを言っている。
私の方が30年長く生きているから私の人生経験の方がより正しいというような不合理なことは私は言わない。
私は私の人生経験からものをいい、この人はこの人の人生経験からものを言う。それぞれに身銭を切って得た知見だ。それなりの確信があって当然である。簡単にはゆずれまい。
だとしたら、いったい、理非の判定は誰にゆだねるべきなのだろう?
読者たち以外のどのような審級にそれをゆだねることができるというのだろう?
「私は正しい」と思い込んでいるものが複数いる局面では、「私の正しさ」がどれほど豊かな経験的知見に支えられていようと、どれほど深遠な文献的知識に裏書きされていようと、「私が正しいこと」は「私の正しさ」の論拠にはならない。私たちが操作し、触れることができるのは、「相対的な支持者数の差」が示す「相対的な正しさ」だけである。私はそう思っている。
話がくどくてすまない。
と、書き終えてアップロードしたついでにリンク集をめくって、「まさかね・・・」と苦笑いしながら、3月10日以来更新の絶えている「おだじまん」を期待度1%でクリックしたら・・・
なんと、復活しているではありませんか。
オダジマせんせーが。
ウチダはおもわず落涙してしまいました。
そのオダジマ先生、いきなりトップスピードで飛ばしていられるが、その最初のトピックのひとつが期せずして「情報の送り手と受け手」の問題、「市場に判定力はあるか否か」という問題であった。さすがオダジマ先生の分析はウチダのそれよりも遙かに深く豊かである。
昼前にテレビをつけてみるも、10 分でスイッチオフ。どのチャンネルを見ても休日のオヤジ向けバラエティばっかし。全局横断的に腐っている。解説屋さんたちのレベルの低さにもうんざり。ネットの方がずっと勉強になる。どっち方向に偏っているのであれ、ネットで出くわすご意見や憶測には少なくともオリジナリティがある。 対して、テレビに出てくるコメンテーターは、穏当なことしか言わない。落語に出てくるご隠居だってもう少しトンがってるぞ。
いや、穏当なコメントがいけないというのではない。解説屋さんご本人の見解が結果として穏当な線に落ち着くのは、ああいうメディアで語る以上仕方のないことだ。が、5 秒のコメントで問題を片付ける前に、せめてそのコメントに辿りつく過程で検討した(したんだろ?)不穏当な見方を紹介するとか、世間の片隅でくすぶっている偏向したご意見について反論をくわえておくとか、それぐらいのことをしたってバチは当たるまいと思うのだが、オレは間違っているか?間違っている?
どういうことだ?「だからさ、視聴者が欲しがっているのは、解説なんかじゃないってことだよ」
じゃあ、何だ?
「結論だよ」
けつろん?
「そう。検討も議論も経ない、30 文字以内の結論。もっとも多少知的な連中は表形式で整理された図式的な現状分析みたいなものを欲しがるけど、それにしたって A4 ペラ 1 枚以内にまとまってないと受け入れてくんないんだから」
ほほう。じゃあ視聴者はバカだ、と。
「違うか?」
違わないかもしれない。確かに、あんたの番組の視聴者はバカだろうさ。でも、その理由は、あんたの番組がバカだからだぜ。バカな番組だから、バカしか観ない。で、バカしか観てないからバカな情報を流す。
バカなループだよ。でも、一番バカなのは、このバカげた無限ループから一歩も踏み出さないでいるあんたたち自身なんだってことは認識しておいた方が良いぞ。「じゃあ、有益な情報を提供すれば賢明な視聴者を獲得できるとキミは言うんだな」
当然だろ。
「ははは。一番バカなのはおまえだよ。オレらが求めているのは、賢明な視聴者なんかじゃない。いいか?
われわれが確保したいのは単に数の多い視聴者だ。ってことになると、当然そりゃあんまり賢明じゃない人たちってことになるだろ? 違うか?」違わないかもしれない。でも、そのバカな視聴者の連中だって、自分たちをバカにされていることに気付かないほどバカじゃないぞ。
「気付かれたとしてどこがまずいんだ?」
マズいな。考えてもみろよ。視聴者は、自分たちがバカにされていることを知っていながら、仕方なくキミたちのバカな番組を観ているんだぜ。つまり彼らがキミらの番組を観ているのは、ほかに選択の余地が無いからに過ぎないわけだ。とすれば、多チャンネル化が実現した瞬間に、キミらは見捨てられることになるじゃないか。
「どうかな? あんたは知らないかもしれないが、バカってのは似てるんだ。みんな似たような情報を欲しがるんだよ。で、同じ方向を向いて、同じことをしたがるんだ。だから、多チャンネルになったところで、多くの人間はこれまでと似たようなバカ情報にチャンネルを合わせると思うよ」
甘いな。テレビが多チャンネル化したら、バカも多チャンネル化する。つまり、今後、番組制作者は、画一的なバカじゃなくって、多様なバカを相手にしなけりゃならなくなるわけだ。そんなことがキミらにできるか? キミらは、バカな視聴者の考えなんていつでも読めるつもりでいる。が、そうはいかない。本来は相手がバカだからこそ、考えを読むことも行動を予測することもできない、と、そういうものなんだよ。むしろテレビ発生以来のこの四十年ほどの流れの方が、バカ史的には例外だったわけだ。
「バカ史? なんだそりゃ」
キミたちは、情報の量さえ確保できれば大衆操作が可能だと考えている。が、そりゃ違う。マニピュレーションの成功は、情報の量ではなく独占度に依存している。ってことは、キミらの手法は、メディアの寡占状況を容認する電波法の庇護のもとにあったってだけの話で、特に優れていたわけでもない。早晩すべて無意味になるよ。
「じゃあ、これからは誰がバカをリードして行くんだ?」
バカだなあ。バカっていうのはそもそもリードできるようなものじゃないぞ。リードしてきたと思っているんだとしたらそりゃ思いあがりだよ。テレビが時代を作って来たと思っているのも、全部あんたたちの錯覚。キミらはバカな連中に操られてバカな踊りを踊っていただけだよ。むしろ操作されてたわけさ。
「ってことは、バカが一番賢いってことになるけど? そういう論旨なのか、この話は」
当然じゃないか。常に多数派に与するってことほど賢明な処世がほかにあるか?
オダジマ先生の結論は「市場には判定力がある」ということと「多数派に与することが賢明である」という点については私と一致を見たようであるが、ニュアンスはずいぶんと違う。やはりウチダとオダジマ先生では「幻滅」の深さの次元が違うようである。
それにしても「バカ史」とは・・・このような視座からの社会史アプローチをいったいオダジマ先生以外の誰に思いつけよう。
ともあれ、天才の復活を祝って、今夜は酒だ。
(2001-06-26 00:00)