6月25日

2001-06-25 lundi

大学院博士後期課程の申請書類を山のように抱えて、山田研究科委員長、東松事務長、大学院事務室の石村さんとともに文部科学省へ。(上野先生は高熱でダウン。京都駅ホームで私の手に最後の書類を手渡すとそのまま崩れ落ちた。哀号)
いくつか書式上のミスを指摘されて「差し替え」を求められたが、とりあえず、重たい書類の山を文部科学省に放り込んで、申請は終了。(直すところって言っても、日付の抜けが一ヶ所と、あとは「1、2」と書いてあるところを「1・2」と直すだけ。そのためにだけ事務長は木曜日にもう一度東京出張である。うう、気の毒。)
ともかくこれで申請は終わった。あとはヒアリングを待つばかりである。
思えば、「総文にも博士課程を作ろう」と言い出したのは今はなき(といっても関学に移籍しただけですけど)鎌田道生先生である。1992 年ころの話。
いいだしっぺの鎌田先生を欠いて、「博士課程増設運動」はいっときしぼんでしまったが、その鎌田先生が関学に去るにあたっての「遺言」が「ウチダくん、スキーの会と大学院よろしくね」であった。
スキーの会は鎌田先生ご命名の「シーハイルの会」をウチダが勝手に「極楽スキーの会」と改称。ハードボイルドで求道的なジャーマン・テイストのスキー愛好会をたちまちのうちに刹那的快楽追求型の「温泉+宴会」主体の極楽スキーに改組してしまったことは人も知る本学の一大醜聞である。
その「裏切り」の慚愧の念がウチダの「ワニの無意識」にもトゲとなって残ったか、「鎌田先生、大学院についてはご遺戒を守ります」とウチダはことあるごとに「博士後期課程の増設の喫緊なること」を訴え続けたきたのである。
その後の経緯は割愛するが、とまれ鎌田先生の旧友にして「制度改革の鬼」上野先生の強力な指導の下、博士後期課程構想は一気に現実化し、ついに今日を迎えたのである。
十年前の「机上の空論」が現実のものとなったのは、ご協力頂いたすべての教職員のみなさんのお力の賜である。心からお礼申し上げたい。ありがとうございました。

帰りの新幹線で一人しずかに祝杯をあげる。
祝杯をあげつつ、共同通信から書評を頼まれた斎藤一郎さんの『幸福論』を読む。面白い。こういうユマニスト的な風儀はいまどきレアである。
読み終わったので、吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズ』を読む。社会学者の書くものはほんとうにクリアカットである。人口に膾炙するところの「カルチュラル・スタディーズ」という学術のいったいどういう点がオリジナルであるのかずっと謎であったが、「別にどこがオリジナルってわけじゃなくて、まあ誰でもこういうふうに考えるわな」ということが書いてある。納得。
野崎 "師匠" 次郎先生がホームページでカルチュラル・スタディーズ批判をされていたので、そちらも読んでみて下さい。ウチダ的には、別に批判されるほど「わるいこと」をしているようには思えませんでしたけど・・・

私は英米の社会学の動向にはまったく不案内で、テクスト論とかメディア論とかについての基礎的知見は70年代にロラン・バルトを読んだところて停止しているけれど、「バルトがいま生きていたら言いそうなこと」を想像すると、カルチュラル・スタディーズの創見とされるものの大半はカバーできそうな気がした。
ウチダは不勉強なので、「レヴィ=ストロースがいま生きていたら言いそうなこと」とか「カミュがいま生きていたら言いそうなこと」とか「小田嶋隆がいま元気なら(生きてるけど)言いそうなこと」を想像して、それであらかた用事を済ませている。
いちいちブランニューな方法を学習しなくても、子どものときにこりこり習得した方法を応用しさえすれば、それで用事が済む、というところが「すぐれた方法」の「すぐれている」所以だと私は考えている。
「カバリッジが広くて、人間のやりそうなたいていのことには応用が利く」というのが「すぐれた思想」のよいところである。一度その方法を身につければ、うまくすると「一生もの」。コストパフォーマンスがたいへんよろしい。
「あまりすぐれていない思想」は鬼面人を驚かすような斬新さはあるが、使い勝手が悪く、応用範囲も狭く、すぐに「賞味期限」が切れてしまう。
「アルマーニのスーツ」と「アオキのスーツ」の違いのようなものとお考え頂いても構わない。
私はそのような基準で「すぐれた思想」と「すぐれていない思想」を区別することにしている。
十年後には「賞味期限」が切れそうな学術的方法を「知識」として蓄積し披瀝するために(場合によっては批判するために)勉強するのは、私のようにもう残り時間があまりない人間にとっては、気の進まないことである。

「賞味期限」が関係ないものが欲しくなったので、森銑三の『明治人物閑話』を読む。
森銑三の文章は私が範とするものの一つである。
この本に収録されている「成島柳北とその人物」はこんなふうに始まる。

「成島柳北といえば、風流才子であったという。この風流才子の一語が、柳北の上に下された動かぬ評言となっているようである。私といえども、柳北の風流才子であった事実を否定しようという者ではない。しかし柳北の人物は、ただその一語で片づけられるべきではあるまい。私はそう思っている。その一事を明らかにしておきたい。」

私は森のこの伝によってはじめて成島柳北の人となりを知った。そして柳北こそ「日本のとほほなおじさんの系譜」の原点に違いないと思い定めたのである。その思いはじっさいに柳北の『柳橋新誌』や『雑譚集』を繙読するに及んで確信に変わった。
柳北は将軍侍講として親しく徳川家茂の教育に当たったスーパーエリート儒者である。漢学にとどまらず英学を修め、のち武官に挙げられ、仏蘭西式教練を行い騎馬奉行に進んだ。幕末動乱のとき外国奉行、会計副総裁、参政を歴任したが、慶喜とともに職を辞し、家督を譲って齢30で隠居の身となった。明治初年欧州に遊び、木戸、岩倉の知遇を得るも新政府への出仕を固辞し、あくまで徳川の遺臣、新時代に「無用の人」に徹し、朝野新聞、『花月新誌』に拠って、日本最初の「ジャーナリスト」としてその「どーえもえーやん、そんなこと」だけを綴った雑録で洛陽の紙価を高めた人である。
成島柳北は私が「日本近代史上いちばんかっこいい物書き」とみなす人である。
柳北についての私の思いは、晶文社から出る本に書かせてもらうことになっているので、これ以上は書かない。出たら読んでね。
「柳橋の芸妓のだれそれがいい女だ」というような天下国家とぜんぜん関係ないことだけをずるずる書き連ねてなお圧倒的な教養と志操の高さによって人を震撼させるというのはなまはんかの才能ではない。(「どうでもいいこと」だけを描いて人心を揺り動かす才能を持った人というと、ほかにルイス・ブニュエルくらいしか思いつかない。)