6月23日

2001-06-23 samedi

私はこれまで自分の書いたものを人に痛烈に批判されたことがない。
理由は簡単で、あまり読まれなかったからである。
最後まできちんと読んでくれるのはたいてい「ともだち」である。「ともだち」の批評というのは「ご高論拝読。楽しく読ませていただきました」という「時候の挨拶」みたいな感じのものが多く、春風駘蕩、あまり侃々諤々の議論がそこから始まるということはない。
たまに「つまらんものを書くな」という歯に衣着せぬ批評が「ともだち」から届くこともあるが、それはそれで一種の友愛の表現であって、「ウチダはもっとちゃんとしたものが書けるはずなのに・・・どうしてこんなものを」という期待が裏切られたことへの哀しみがそう言わせるのである。たしかにそう言われて読み返してみると「つまらないこと」が書いてあるので、「なるほど」と納得して、それはそれで議論にならない。
『ためらいの倫理学』は私の著書としては異例に多くの人に読まれた本であるが、いまのところ「面白かったです」という批評しか届いてない。
読んで「つまらん」と思った人はわざわざそれを私に知らせて蒙を啓く労をとるほど私に対して親身な気分にはなれないのであろう。その気持ちはよく分かる。
「ウチダはもっとちゃんとしたものが書けるはずなのに・・・」という「期待派」からの批評も今回は一つとしてなかった。おそらく今回の本で期待を持つことのむなしさを骨身にしみて味わったからであろう。

ところが例外的なことであるが、今回、本を読んだ上で、こまかく批評してくれた人がいた。
これはレアなと思って読み進んだが、なんだかうんざりして途中で止めてそのままごみ箱に棄ててしまった。
こういうのは全然「批評に対して開かれた態度」ではないので、われながら狭量だとは思うが、しかたがない。

批判に対してさらに反批判するというのは一種の「地獄」である、と村上春樹は書いていた。
「ものを書く」というのは、「バーを経営する」というのとそんなに変わらない、というのが村上春樹の考え方である。
店に来た客のうち、「あ、この店いいな、また来よう」と思うのは十人に一人くらいである。
その十人に一人を照準して店をやるのが、経営の要諦である。
十人のうち八人、九人が「ごひいき」になるような店というのはありえないし、そのような店を作ろうとしても無理である。
客の方も一度入って「あんまり好きじゃないな、この店の感じ」と思ったら、そのまま静かに立ち去るだけで、わざわざ店主のところに行って「私がこの店がきらいである。なんとなれば」と弁じ立てるようなことはふつうしない。
店主の方も、一度来たきり再訪しない客をつかまえて「どうしてうちに来ないのだ」と詰問する、というようなことはしない。
こういうことをはじめると、終わりがないし、そこから生産的な何かが始まるということもないからだ。

「来る人は来る。来ない人は来ない。」

そういうものである。
「ものを書く」のもそれと同じであると村上春樹は書いている。
「あ、この本面白かった。またこの人の本出たら買おう」と思うのはせいぜい十人に一人くらいである。それで十分だと私は思う。十人のうち八人、九人に支持される本を書こうなどとだいそれたことは考えないほうがいいし、そもそも考えても書けない。
私の書くものは、私の書くものが「読みたい」人のために書かれたものであって、私の書くものが「読みたくない」人のためには書かれていない。
控え目にみても、日本に1億2千万人くらいはいるはずの「私の書いたものを読みたくない人」は読んでも意味がよく分からないか、意味は分かるが腹が立つかのどちらかである。
私の考え方や書き方が「気にくわない」という意見をお持ちの方はそう思う権利があり、私はそれを尊重する。
そういう方にお薦めしたいのは、とりあえず読まないことと読んだ事実そのものを忘れてしまうことである。
もう読んでしまったし、忘れられない、という人はしかたがない。そういう方は、できる限りあちこちで「ウチダはよくない」と主張してくださればよいと思う。そのロジックに説得力があれば、「ウチダはよくない」ということがひろく万人の共感するところとなり、市場の淘汰圧の赴くところ、私の書くものはあらゆるメディアから一掃されるであろう。
そもそも、そのような市場への説得的働きかけによる「多数派形成ゲーム」をきちきちと展開することがとてもたいせつなことなのだ、ということ「だけ」を私はあの本で書いたつもりである。
「ウチダはもう書くな」とか「ウチダの本は焚書にしろ」とかいう主張には合理性がないが、「ウチダは間違っている」という主張には必ず合理性的根拠がある。
私は自分がものを知らず、知っていることについても不完全な推論しかできない人間であることを知っている。多くの点で私は不正確で誤った意見を開陳しているはずである。その点をただしく指摘した批判であれば、読者たちはその批判を支持するだろう。そもそも事実誤認や推論の誤りについて指摘されたら、私は誤りをすぐに正す。これまでもそうしてきたし、これからもそうするつもりでいる。
ただし、「自分がものを知らず、知っていることについても不完全な推論しかできない人間であることを知っている」ことだけが「より正しい推論」に至るための唯一確実な道である、という知見については、誰が何と言おうと、私は絶対に誤りを認めない。
この知見は私が半世紀生きてきて手に入れた、ただ一つの確実な経験知である。
この経験知さえをも懐疑の「かっこにくくりこむ」ような反省的機能は私の中にはない。
反省に無限後退はない。
どこかで人は反省を停止させる。
「いま反省しつつある自分の反省の進め方の妥当性をこれ以上疑うと、もう思考ができなくなる」デッドエンドが必ず存在する。
人間は自分の愚かしさを吟味する方法については一つしか「やり方」を知らない。
これは私の確信である。
「私はいま反省しつつある自分の反省の構造そのものを無限に懐疑でき、つぎつぎとブランニューな反省方法を発明できる」という人がいたら、その人は嘘をついているか頭がすごく悪いかその両方かのいずれかである。
その「どうにも変えようのない、たった一つの自己省察の仕方」が私の書くもののただひとつの「売り物」である。
「それ、買うたるわ」という人には「まいどおおきに」と微笑みかける。
「そんなん、いらんわ」という人には「そうでっか? お気に入りまへんでっか。そら、えろーすんまへんでしたな」と答える。
しかし、「それ、売るな」という客に対してはそれほど愛想をよくするわけにはゆかない。