6月22日

2001-06-22 vendredi

セクハラの話の続き。
今日の朝日新聞の記事によると、アメリカではセクハラや雇用差別についての訴訟が相次ぎ、次々と企業が敗訴しているらしい。
いくら当人に「そんなつもりがなかった」と言っても、「嫌がらせを受けた」と被害者本人が感じれば、加害者の言い分は聞かれない。うっかりすると、損害補償どころか企業の総資産の1、2%に相当する慰謝料支払いを命じられるという。
セクハラや雇用差別に私はもちろん反対だが、だからといって、アメリカみたいなのは、ずいぶん殺伐としていうように思われる。
記事によると、アメリカでは「採用や昇進の際、仕事上の本人の能力以外を判断材料にすることは許されない。人種、性別、宗教のほか、結婚や居住地、逮捕歴などが能力以外のものにあたる。採用面接で『結婚しているんですか』なんて訊ねたら即座に訴えられてしまう。」
うーむ。
これはそんなに「すばらしい」ことなのだろうか?
傷害致死の「逮捕歴」があるけれど仕事はばりばりできる人間と、それほど有能ではないけれど温厚篤実な人間とどちらといっしょに仕事をしたいか、と聞かれたら、私はたぶん後者を選ぶ。
というのは、法治社会において「逮捕歴がある」ということを、私はある種の社会的能力の欠如と考えるからである。
「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということを知らないで違法行為を行って逮捕されてしまった人間は「バカ」である。
「バカ」であり、かつ「仕事ができる」人間の在ることを私は信じない。
「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということが分かっていてなおそれをする人間は、「ルールを軽視するタイプの人間」である。
そのような人間がトップに立って「ばりばり仕事をした」場合、当該企業は、産業廃棄物の不法投棄とか品質管理の手抜きとかいう「不法行為」のチャンスに際して、そうでない場合よりも「ルールを軽視する」可能性が高い。
そのような不法行為は結果的には大きな社会的制裁を企業にもたらすので、「ルールを軽視するタイプの人間」は長期的に見れば「企業に有害な人間」、つまり「仕事のできない人間」である確率が高い。
私は企業は採用や昇進において「総合的な人間的能力」を基準にするのは当たり前だと思う。
その場合、私生活でどのような生活形態を営んでいるかということを、その人の能力をはかる基準にすることは適切であり、「訴えられる」ようなことではない、と考える。
社会通念上「ま、このあたりまでは『オーディナリー・ピープル』と言っていいわな」というあいまいな基準は存在する。そして、「あきらかにオーディナリーでない人」にはできれば「敬して近づかない」方がよい、というのは「大人の常識」である。
そして、「大人の常識」をわきまえている、ということはどのような社会活動をする上でも、とりわけ企業が継続的にクライアントからの信頼性と「ご愛顧」を確保し続けるためには、不可欠の重要な条件であると私は考えている。
私が人事担当であれば、「悪魔信仰」の人は採用したくないし、猫を殺すのが趣味というひとも断りたいし、結婚が今度で十回目という方も遠慮したいし、新宿歌舞伎町コマ劇場ウラのヤクザの事務所の隣に住んでますという方もできたら避けたい。
だから、そういうバックグラウンドについて、一言も質問できない、というのはずいぶん不自由な気がする。
人事担当者にむかって、自分のパーソナル・ヒストリーを問われるままに語って、「おお、この人は大人の常識のわかった人だ」と信じ込ませることが「できる」かどうかということはすでにその人の社会的能力の重要な一部である。それができる人間は「仕事ができる」可能性が高い。
自分について何も語らず、「大人の常識」があるのかどうか、なんだか怪しいという人間は、その時点ですでにある種の社会的能力の欠如をさらけだしている。その程度の能力を欠いている人間は「仕事ができない」可能性が高い。
私はそう思うし、おそらく多くの日本のサラリーマンもまた私と同意見であろう。
しかし、残念ながら、以上の私の議論はまったく「日本のサラリーマン的」限界のうちにとどまっている民族誌的偏見にすぎないのである。
というのは、そもそも「仕事上の能力」というのは、その人の総合的なものの考え方とか、社会的成熟度とかとまったく無関係に定量できるとする思想こそが「アメリカの常識」だからである。
つまり、アメリカでは人事担当者がうっかり「結婚してます?」とか訊いた瞬間にただちに弁護士に電話をするようなタイプの人間こそが「大人の常識」を備えた人間であり、人事担当者の片言隻句言葉尻をとがめて、企業を訴えてまんまと総資産の数パーセントをもぎとるような「仕事のばりばりできる人間」こそ、全企業がわれさきに採用しようとするタイプの人間だからである。
蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘る。
アメリカ社会はそうやって「アメリカのオーディナリー・ピープル」を選抜していらっしゃるのである。
勝手にしてね。