少女マンガで卒論を書く学生さん(と言っても私のゼミではなく、人間科学部のM永先生のお弟子様)から相談を受ける。
話は赴くところ「少女マンガとは何か?」という本質的な問いに逢着する。
少女マンガとは何か?
これはなかなか奥の深い問題である。
私だって、そんな問題をいつも考えているわけではないので、急に聞かれても答えようがない。だが、そこはそれ大学の教師である。まるで10年前から「そう聞かれるのを待っていたんだよ」といわんばかりに、お答えする。
もちろん、すべてはその場で考えた「口からでまかせ」である。しかし、「口からでまかせ」軽んずべからず。なまじの熟慮より、舌先三寸の即興がときに正鵠を射ることもある。(射ないこともある)
お答えしよう。
ひとことにして言えば、少女マンガとは「女性のビルドゥングスロマン」である。
少女マンガ家は「すでに知っている何か」を伝えるために描いているのではない。
彼女も知らない何かを「知るために」描いているのである。
それは何か?
「理想の女」である。
「女性のビルドゥングスロマン」とは、「理想の女」めざす少女の終わりなき変容のプロセスそのものを「オープンエンド」形式で描いた作品群のことである。
少女の成長には大きく分けて、三つの段階があり(お、ラカンみたい)、それはそれぞれ少女マンガの三つのジャンルに対応している。
三つの段階とは、すなわち「学園界」「道場界」「家庭界」である。
「学園界」では主人公は「中学生または高校生」。おもな主題は「恋愛」。場合によっては「親・友人との葛藤」である。
「揺れ動く感情の機微」の描写に力点が置かれ、「語りの水準の複数性」と「表現主義的図像」に特徴がある。
「語りの水準の複数性」とは実際に発語された言葉、心の中の意識的な声、心の中の無意識な声などなどが登場人物ごとに錯綜する状態を指す。紡木たくはひとこまに語りの水準の違う七つの声が輻輳するというアクロバシーを演じたことがある。「表現主義的図像」とは『カリガリ博士』でおなじみの「内面の図像化」のことである。
少女にとって最初の決定的な成長の契機は「自分の中に複数の声が存在する」ことを発見することである。それを発見させるのが「学園界」の効果である。
「道場界」では主人公の設定はもう少し広がる。主な主題は「師弟関係」と「スキルの獲得」である。『ガラスの仮面』『エースをねらえ!』『アラベスク』など、少女マンガの古典的名著にはこの界に取材したものが多い。
少女にとって二度目の成長の契機は「他者としての師」(月影先生、宗方コーチ、ミロノフ先生などなど)に出会うことである。これについては長い話になるので、いずれまた。
「家庭界」は「あらゆる精神疾患の源泉は家庭にある」とフーコーが看破した「狂気の培地」としての家庭に照準したものである。「家庭が狂気の培地である」ということは、一定の社会関係を経験し、いくつかの「愛」を経由し、擬制的な「父」を持った人間以外には、反省的には把持されにくい。したがって、「家庭界」への参入は、「道場界」での成長を経由して以後なのである。
「家庭がはぐくむ狂気」にもっともこだわった作家は山岸涼子である。ある時期の山岸涼子はほとんどそれ「だけ」を描き続けていたと言ってよい。(『天人唐草』、『恐怖の甘いもの一家』)
遺伝的なもののネガティヴな決定性を執拗に描いたものには萩尾望都『ポーの一族』がある。佐々木倫子の『動物のお医者さん』も菱沼聖子という異常なキャラを通じておなじ主題を繰り返し描いていたね。
とまれ、少女にとって三度目の成長の契機は「生物学的宿命という檻」「おのれに根づいた遺伝的狂気」とどう対峙するか、なのである。
なかなか少女マンガで「家庭界」にまでたどりついたものは少ないが、そこまでたどりついたものはすべて傑作の域に達していると言うことはできるであろう。
ほんとうはもうひとつ先まであって、そこは「霊界」と呼ばれている。
「霊界」に進んだ女流マンガ家はしばしばご本人が(山本鈴美香先生のように)「教祖」になってしまうので、「霊界」そのものの画像化はなかなか実現しない。最近は岡野玲子という才能ゆたかなマンガ家が「霊界」を描いているが、残念ながらこれは「少女マンガ」ではないので、女性のビルドゥングには直接かかわらないのである。これまでの成功例としてはやはり山岸涼子『日出づる処の天子』にとどめを刺すであろう。
このように、「学園界」「道場界」「家庭界」という三つの界域は、それぞれ少女の「成長」の決定的な契機を画している。
さてお気づきであろうが、これらの成長プロセスにおいて「恋愛」が決定的なファクターであるのは、じつは「学園界」だけなのである。
少女マンガというと「学園ラブコメ」だけしか思いつかない人がいるが、あれは「少女マンガの小学校段階」にすぎない。言い換えれば、「恋愛」が少女の成長の契機になるのは、彼女たちが未成熟であるとき「だけ」なのである。それ以後、「恋愛」は少女を支えたり、苦しめたり、混乱させたりはするが、もはや「成長の契機」ではなく、単なる「出来事」の水準にとどまる。
それゆえ、「藤堂、女の成長を妨げるような愛し方をするな」と宗方コーチがつぶやくとき、ひろみはすでに「男の愛が女の成長を妨げることはあっても、成長を支援することはできない」段階、「成長のためには愛とは別のものを必要とする」段階に達しているのである。それが「道場界への参入」ということである。
細かい議論はさておき。私が言いたいのは、少女マンガの究極の目的は恋愛と師弟関係と生物学的宿命を「乗り越えて」すすむ少女が最終的に到達すべき「理想の女性」のロールモデルの提示にあるということである。
そしてもちろんこれまで誰一人それに成功した作家はいない。
文学においても、成功例を私は知らない。もし文学で誰かがそれに成功していたら、貪欲なる少女マンガ家たちのうちの誰かが、すでに文学作品のマンガ化を試みていたはずである。だが、私は寡聞にして「女性作家のビルドゥングスロマンのマンガ化の成功例」を知らない。
私の知る数少ない女性作家の文学作品のマンガ化の例は『嵐が丘』と『たけくらべ』であるが、これは『ガラスの仮面』の「劇中劇」という「引用」のかたちにおいての出来事である。
重ねて言うが、少女マンガの究極の(そして原理的に不可能な)ゴールは「理想の女性」の図像化である。
それは決して「理想の人間」の図像化ではない。あくまで「理想の女性像」である。
そのような「理想の女性」の理念型は歴史的形成物であり、父権主義的イデオロギーの副産物にすぎない、と言うフェミニストがいるかも知れない。
「そんなの、男にとってつごうのいい女性像よ、ふん」と彼女たちは言うかも知れない。
違うね。
父権主義イデオロギーは少女の夢想を受け容れられるほどのキャパシティをもっていない。
父権主義的イデオロギーが物語化できるのは、せいぜい「道場界」どまりである。おのれを宿命づける「家族の狂気」についての女性の自己省察までをも「聖なる天蓋」のもとに回収できるほどに太っ腹な父権主義的な物語などは存在しない。
「理想の女」は男たちの欲望とは無縁に、しかしあきらかに男たちによって空想的に造形されている「理想の男」のカウンターパートとして、少女たちの夢想の彼方に描かれている何ものかなのである。
私は「理想の女性の理念型」が、「男性の主権的欲望」の関数としてではなく、自立的に存在することを信じる。少女マンガの存在はそれを証明している。そして、少女マンガはまさにエマニュエル・レヴィナスのエロス論の「対極」に位置している。
かつてジャック・デリダは「形而上学の歴史において、女性がそのテクストの主語ではありえないようなテクストを書いたのはレヴィナスをもって嚆矢とする」と書いた。
私は同じ文を反転してこう言いたい。
「人類の歴史において、男性がそのテクストの語り手ではありえないようなテクストを書いたのは少女マンガをもって嚆矢とする。」
少女マンガは不滅です。(レヴィナス老師もね)
(2001-06-21 00:00)