6月20日

2001-06-20 mercredi

「京大教授、セクハラ」という記事があるので読む。

京大の文学部教授(52歳)が、大学院進学を希望していた女子大生に対して、卒業論文や入学試験の指導を名目にセクハラ行為を繰り返していたとして、京大当局は3ヶ月の停職処分に処した。
記事によると、この教授は女子学生を研究室やホテルのバーに30回以上にわたって呼び出して、セクハラ行為を繰り返し、大学院合格後は執拗に交際を迫り、「誘いを断ると、『研究者としての将来はないぞ』と脅された」ため、学生は進学を断念したという。

なんだか TV ドラマにそのまま出てきそうな「画に描いたようなセクハラ教授」である。
そういうことをしてるのがばれたら首が飛ぶ、ということは多少とでも新聞や雑誌を読んでいれば周知であるはずなのに、なお平然とそのような行為を繰り返す人間が大学の教師をしていることに、みなさんは驚かれたであろう。
なぜ、それほどまでに彼は楽観的にセクハラ行為を続けており、自分が新聞記事になる可能性のあることを想像しなかったのであろうか。
それが不思議である。
おそらく、「そんなことはありえない」と彼は考えていたのである。
どんな根拠で?
彼がそのように判断する根拠があるとしたら、(女性のがわが絶対に秘密を守らずにはいられないような「弱み」がある場合を除いては)ただ一つしかない。
それは、「ほかの連中も似たようなことをしている」からである。
日常的に違法行為を犯している人間は世間にやまのようにいる。
彼らはある日つかまって仰天する。

「どうして? どうして今日に限って? 私だけが? だって、昨日はつかまらなかったのに? 他の人たちは今日もやってるのに?」

そう。
大学セクハラ問題があとをたたないのは、少なくともセクハラ教師自身は「やっているのはおれだけじゃない」と思っているからである。
「この程度のことを目くじら立てて取り締まったら、男の大学教師なんて一人もいなくなっちまうよ。がははは」と彼らは考えている。だから、平気でセクハラを繰り返すのである。
「駐車違反」や「スピード違反」の取り締まりでつかまったドライバーがぜんぜん反省しないのと理由は同じである。

聞いた話であるが、私の友人のつとめていた大学では組織的に「カラ出張」をしていた。
私の友人が助手になってすぐに専任教員全員分の「カラ出張」伝票の起票を先輩の助手に命じられて仰天した。

「それって、犯罪じゃないんですか?」
「何、言ってんの。どこの学科もやってるし、職員だってみんなやってるよ。」

彼が研究室会議で「カラ出張」の廃止を提言したら、教員たちは不機嫌な顔をした。
彼が驚いたのは、「カラ出張」していることを誰かが監督官庁か新聞社に「密告電話」一本すれば、それだけで学科の教員全員が停職か罷免になるかもしれないという「リスク」を彼らがそれまでまったく気にしていなかったことである。
たとえその大学の教職員全員が「カラ出張」していても、「たくさんの人が違法行為している」という事実は「違法行為をしてもいい」根拠にならない。
そんなことは子どもにだって分かる。
自分たちの華麗なる学問的キャリアと安定した社会的地位が電話一本で吹っ飛ぶかもしれないというリスクを「7万5千円」の「カラ出張費」の対価として選ぶ人々の「リスク感覚」に彼は驚いたのである。

セクハラの教授たちも発想は同じであろう。
彼らがさっぱりセクハラを止めないのは、「みんなやってる」と思っているからである。
ばれたらたしかに問題になるだろう。だけれどもばれるはずがない。だって、みんなやってるんだから。
おそらく事態は彼らの言い分に近いのだと思う。
数年前、留学帰りの学生さんから、英国に来る日本の大学の教師たちに、「帰ってからうちの非常勤世話してもいいよ」という代償で、一夜のお付き合いをオッファーするものがいたという話を聞いた。
たぶんこういうのは「氷山の一角」なのだろう。
そういうやりとりが罷り通っている場所がおそらくそこらじゅうにある。「そこらじゅうにある」からこそ、当人たちは罪の意識を持つことがないのである。
ひどい話だ。
セクハラ教師たちに不足しているのは、「倫理性」ではない。(そんな上等なものは誰も要求しやしない。)
彼らに不足しているのは、「リスクの観念」である。言い換えれば、「判断力」であり、「思考力」である。もっとにべもなく言えば「知性」である。
私はどのようなセクシュアリティの歪みをかかえていようと、そんなことは大学教員の適格性には何の関係もないと思っている。しかし、「知性」のないことは大学教師として致命的な欠格条件であると思う。