6月13日

2001-06-13 mercredi

鈴木晶先生が書評されていた鄭大均さんの『在日韓国人の終焉』(文芸春秋)が届いたので、それを読む。
鄭さんの主張は在日韓国人は、国家への帰属感が稀薄化している韓国籍にこだわることを止めて、日本国籍をとって、日本のフルメンバーになる方がいい、というものである。
現在日本に在住している韓国朝鮮籍の人々は63万人。そのうち52万人がサンフランシスコ講和条約で日本国籍を失った人々とその子孫に当たる「特別永住者」である。
日本に帰化して日本国籍を取得した人々は52年から99年までで23万人。
この数は決して多くない。それにはいくつか理由がある。

朝鮮総連のスタンスは明快だ。総連ははっきりと「帰化は民族に対する裏切り」と言明しており、「在日」とはあくまでテンポラリーな身分であって、祖国にもどって「堂々たる朝鮮民主主義人民共和国の公民として」生きるのが「本来」のあり方であるとしている。だからこそ80年代まで北朝鮮帰国運動というものが存在し、9万3千人が「帰国」を果たしたのである。(その後、北朝鮮の実状がしだいに在日朝鮮人にも知られるに及んで、帰国運動はしりすぼみになっている。それでも、北朝鮮がいずれそれにふさわしい「祖国としてのディグニティ」を回復すれば、帰国運動は再開されるだろう。)
彼らは期間は長いが本質的には「トランジット」の人々である。だから、朝鮮総連が国籍を求めないと同時に、参政権も要求しないし、指紋押捺も拒否しないというのはとりあえず論理的な行動である。(「長すぎるトランジット」がもたらす矛盾にいずれ直面せざるを得ないとは思うが)

では韓国籍の人々はなぜ日本国籍を取得しないのか。
もちろん第一には「差別国家」日本の国籍を取ることは、植民地主義の被害者という立場を放棄し、いわば加害者と一体化することだ、という強い心理的抵抗が働いているからである。
しかし、外国人として日本にとどまる限り、彼らは日韓いずれの国家のフルメンバーでもない、というきびしい重荷を背負わさていれる。
在日韓国人は兵役義務がなく、韓国での住民登録がないので選挙権を持たない。(中には、「在韓・在日韓国人」というかなり複雑な状況の人たちもいる。住民登録して、日本永住権を放棄すれば、韓国のフルメンバーになれるが、その決断する人は少ない。)

「日韓いずれの国家のフルメンバーでもない」という引き裂かれた状態を鄭さんはできるだけはやく解消したほうがいいと考えているが、この「宙吊り」をむしろ思想的な意味で「生産的なもの」と考えようとする人々がいる。
鄭さんによれば、日本の「共生論者」「多文化主義者」「人権主義者」たちは、そのように考える傾向にある。
そこには「差別国家日本」の制度的矛盾をまさに生きている人々こそが国家制度変革の旗手となるべきだ、という(マルクス以来の)「制度の最大の被害者=制度改革の主体」という考え方がある。たしかにメディアの論調を徴する限り、日本の多少とも左翼的な知識人はこの立場につよく親和的である。そのせいで、現在日本社会では帰化に対するモラル・サポートは驚くほど少ない。
鄭さんの発想法は「国籍を取ることによって失うもの」と「国籍を取ることによって得るもの」をクールに計量すれば、結論は出るのではないか、というものである。このような計量的な知性のあり方を私は支持する。
たしかに「心理的抵抗」や「ルサンチマン」や「民族の誇り」といったメンタルな要素は計量的に論じることの困難なものだ。だが、日韓いずれの国にも十分に帰属できない「No man's land」の住民であり続けるという現在の生き方をこれ以上続けることに積極的な意味を見出すこともひとしく困難であると思う。
鄭さんはこんなふうに書いている。

「在日韓国人が韓国籍を維持したまま生きるということには歴史的、道徳的意味があるのだという人がいる。 だが、私の考えでは、在日韓国人が日本で生活していることに深い意味や特別な意味はない。在日の一世たちは朝鮮半島よりは日本を生活の場として選択したのであり、その子孫である私たちもそれを受容しているだけのことである。そして、私たちはこれからも日本で生活していかなくてはならないことを知っているし、日本で生活するからには日本国籍が必要なことも知っている。(...)
つまり、在日韓国人は『永住外国人』などという宙ぶらりんな存在としてよりは、日本国籍を取得して、この社会のフルメンバーとして生きていけばいいのであり、そのために必要なら帰化手続きの弊を指摘すればいいのである。
在日韓国人・朝鮮人は日本国籍を取得し、日本のフルメンバーになるほうがいい。(...) 重要なことは、私たちは外国籍を持つ限り、政治的な権利から遠ざけられるというだけでなく、責任や義務の感覚からも遠ざけられてしまうということである。」

そのための具体的な提言として、鄭さんは「特別永住者」は「無審査」で、申請にもとづいて国籍が取得できるようにすること。姓に用いてよい漢字に制限を設けないこと。特別永住者以外の「一般永住者」(52年以降に定住した人々)にも日本国籍取得の方途を確保すること。特別永住者には二重国籍を認める可能性も吟味すること、を挙げている。
たしかに在日韓国人にとって帰化は心理的に容易な選択ではないだろう。けれども、できるだけ帰化の物理的条件を緩和することはできる。物理的なハードルをできるだけ下げて、心理的な抵抗「だけ」クリアーできれば、国籍取得がかなうように制度を整えるようと提言することは、共生論者や多文化主義者が思うほどに欺瞞的で犯罪的なことではないと思う。
日本国籍を取ることと、民族的アイデンティティを保つことは別に矛盾しない。現に、韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人は、「アメリカ国民」でありながらそれぞれの民族的アイデンティティを強く意識し、伝統文化や固有の価値観をアメリカ社会に認知させようと努力してきており、それは一定の成果をあげている。
それと同じことがどうして日本では不可能であるし、試みるべきでもない、とされるのか、鄭さん同様私にもうまく理解できない。
日本社会に文化的多元性と混質性をもたらす、という目的だけから言えば、それが「韓国系日本人」や「朝鮮系日本人」であってはならず、「在日韓国人」「在日朝鮮人」でなければならないとされる理由はないはずである。
率直に言わせてもらうと、私自身はそれが日本人であれ外国人であれ、おのれの「エスニック・アイデンティティ」を声高に主張する人が嫌いである。
繰り返し言うように、単一民族・単一文化・単一言語という幻想は21世紀においてはできるだけ早い時期に廃棄すべき「遺物」だと思っている。しかし、それでも「エスニック・アイデンティティ」を声高に語りたい、という人の気持ちは尊重するほかない。「いいとは思わないけれど、それほど固執してるなら、好きにしたら」と言って肩をすくめるほかないことだって時にはある。
「外国人参政権」の問題について、昨年の10月ごろにこのホームページにその感想を書いたことがある。それについては、ずいぶんいろいろなところから批判を受けた。
私が言いたいことはそのときとすこしも変わらない。そして、それは鄭さんの主張と多くの点で重なっている。

(1)日本社会が多民族・多文化共生型の社会になることはよいことだし、そもそもそれ以外の現実的な選択肢はないと思っている。(この点で私は日本のナショナリストと意見を異にする。)

(2)多民族・多文化共生社会をつくりあげてゆくためには、「単一民族・単一言語・単一文化の祖国」への幻想的な帰属感のようなものは阻害要因となるだろう。(この点で、私は「共生論者」と意見を異にする。彼らはさまざまな国籍と民族的アイデンティティをもった「外国人」の混在を「多文化共生社会」だと考えているからだ。この「理想社会」は私には索漠として非寛容なもののように思える。たぶんそれは、私が「エスニック・アイデンティティ」の過剰をはげしく嫌っているせいである。)

(3)さまざまな文化的バックグラウンドをもち、出自を異にするひとびとが、その意志さえあれば、容易に正規の日本国民となることができ、ひとしい政治的な権利と義務を負う制度を整備することが必要である。(ただし「権利」という言葉に私が与えている意味は、通常の理解と異なるかもしれない。)

ある社会において「市民としての政治的権利を行使する」ということは、昨日の日記にも書いたけれど、単に一市民として、社会制度の不備や犯罪性や後進性を告発したり糾弾したり「できる」ことだけを意味するわけではない。
「日本人を代表して」両国の友好的な未来について約束することばかりでなく、「日本人を代表して」(自分自身が個人的には反対している政策についてさえ)「外国人」の叱責にうなだれて聞き入ることもまた私たちの「政治的権利」の一部だと私は考えている。
私は先日中国人の劉先生に「日本人を代表して」うなだれて謝罪したけれど、私にむかって「ウチダにはそんな権利はない」いう人がいたら、私は「いや、私にはその権利がある」と答える。私は日本のフルメンバーだからである。私には「恥じ入る権利」がある。
逆説的な言い方だが、私には日本人として「責任をとる権利がある」のである。
「批判はするが、責任はとらない」というようなことは集団のフルメンバーがとることのできない態度である。
というのは、ある社会を住み易くするのは、最終的には、その社会が「すみにくい」と声を荒立てて批判する人間ではなく、その社会がすみにくいと批判されて「恥じ入る」人間だからである。
もちろん、誰かが最初に「すみにくいぞ」と声を荒立てない限り、問題は前景化しない。
だから、おのれの帰属する社会をラディカルな語法で「批判をする」ことができ、かつその「批判」をみずからの「痛み」として受けとめられる、という二重の能力が集団のフルメンバーの条件になる、と私は考えるのである。
ある集団に対して専一的に「批判的」にのみコミットし、その集団のもつ欠陥や不備については責任を感じないでいたい、という欲望の切実であることを私は理解できる。
「無垢」でかつ「無責任」でいたいというのは自然な欲望だからだ。
そして、私たちはそのような欲望に身を委ねるもののことを「子ども」と呼ぶのである。