大阪の小学校で8人を惨殺する事件があった日に、新聞にアメリカの喫煙者がフィリップ・モリス社を相手の訴訟で勝訴して30億ドル(!)の賠償金を勝ち取ったという記事が出ていた。
この男は13歳から40年間毎日2箱フィリップ・モリスのタバコを吸い続け、肺ガンになった。その責任はひとえに「タバコ会社の宣伝」に欺かれたためである、という主張を裁判所が認めたのである。
二つの事件は同じ問題をめぐっている。
それは「自己責任」ということである。
刑法39条は「心神喪失・心神耗弱」についてこう規定している。
1・心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス。
2・心神耗弱者ノ行為ハ其刑ヲ減軽ス。
大阪の殺人者は離婚した妻に対して再三「精神病者がやったら無罪や」「人を殺しても死刑にも無期にもならん」と脅迫を繰り返していたと伝えられている。(6月12日付朝日新聞)
事件を起こした男は、刑法39条を知った上で、犯行に臨んだわけである。つまり、自分には「責任能力がない」ということが、彼にとって免罪の効果を持つことを知りつつ、「責任能力がない」生き方を突き進んだということである。
アメリカの裁判所の判決についても同じことが言えそうだ。
この判決のほんとうの狙いは喫煙習慣そのものを(少なくともアメリカ国内では)廃絶することにある。おそらくそれはアメリカ国民の健康に裨益するところが多であろう。
しかし、その代償に失ったものもあると私は思う。
たしかに、社会の成り立ち方について無知である人間は、社会の成り立ち方を熟知している人間よりも、なした行為について責任が少ないというのは、理にかなっている。
「子どもがしたことだ、大目に見てやんなさい」というのは大人として当然の対応である。
しかし、「子どもはしたことは大目に見られる」という「社会の仕組み」を知った上で、なお「子ども」であり続ける生き方を選んだ人間について、「この人は社会の仕組みが分かっていない子どもなのだ」という理由で免責を求めることが可能なのだろうか?
「ゲームのルールを知らないプレイヤー」にはルールを厳密には適用しない、という考え方には合理性がある。
しかし、「ゲームのルールを知らないプレイヤーにはルールを厳密には適用しない」ということを知った上で、ルールを「知らない」ですませる道を選んだプレイヤーは、その段階で、ルールについて、ある意味で合理的な判断を下していることになる。
ルールについて「ある意味で合理的な」判断を下せる人間を「ルールを知らないプレイヤー」とみなすことは可能であろうか?
アメリカの喫煙者について言えば、彼は(その主張を信じるならば)「資本主義企業は商品を売るためには、その害を隠蔽しつつ宣伝を行うこともある」という経験的事実を52歳に至るまで知らずに生きてきた。
しかし、「商品を売るためにその害を隠蔽した資本主義企業は消費者からの訴えで敗北することがある」という経験的事実についてはかなり早い段階からこれを知っていた。
「煙草が健康を害すること」は知らないがと「消費者訴訟の進め方」は知っている人間、というのはどういうタイプの人間なのだろうか?
「ゲームのルール」を知らなかったはずのこの男たちは、「ゲームのルールを知らないと主張すると、ルールが適用されないことがある」というルールは知っていた。
「ロジカル・タイプ」という考え方を用いれば、大阪の男も、アメリカの喫煙者も、「ルールの適用範囲と効果についてのルール」(それは「メタ・ルール」と呼ばれる)は知っていた、ということになる。
メタ・ルールを理解し、それを遵守する能力がありながら、ルールを理解し、それを遵守する能力がない人間の在ることを私は信じない。
それゆえ、彼らの行為の結果は彼らの自己責任によって贖われるべきであり、余人にその責を求めることはできない、と考えるのである。
(2001-06-12 00:00)