偶然ということがあるね。
先日、5月26日にI田先生と飲んでいるときに、急に先生が「あ、今日は私の離婚記念日だ!」と声を上げた。
ほんとですか、奇遇ですねと言っているうちに、私もなんか、その日が自分に関係あるような気がして、考えてみたら、5月26日は私の結婚記念日であった。
これをユング派のひとは「シンクロニシティ」と呼ぶ。
私とI田先生の*婚記念日が同日である確率は一年のカレンダーに任意に二つずつ○をつけたとき、そのうちの一つが重なる確率であるから、たぶん、それほど驚愕すべき数値ではない。
その日になって、そのことをふっと「思い出す」のも、まあ、よくあることといえば、よくあることである。
では、こんな話は?
18歳のとき、予備校をさぼって映画を見に行った。
『ローズマリーの赤ちゃん』というポランスキーのホラー映画である。
映画の中の、「ローズマリーの赤ちゃん=悪魔の子ども」の出産予定日が(たしか6月13日だったと思うけど)がなんだか気になった。
よく考えたら、前につきあっていた彼女の誕生日だった。その子はみんなから「悪魔のような女」と呼ばれていた。
「おお、テリブル、テリブル」とつぶやきながら映画館を出て、真夏の日差しにげんなりして、「ああ、早く夏休みにならないかな」と思ったらその日が6月13日だったことに気がついた。
これは365分の1x365分の1=13万分の1の確率でしか起こらない出来事であるので、そのときに背筋を走った不快感をいまでもよく覚えている。
『マグノリア』は Greenberryhill という街路で起きた強盗殺人事件の犯人の名が Green と Berry と Hill だった、という実話から始まる。
フロイトはこのような「偶然の一致」のもたらす「気味の悪さ」について『無気味なもの』の中で分析を加えた。
例えば、クロークでもらった引換券の番号が62番で、そのあと乗った船室の部屋番号が62番だったりすると、「無気味と思うのだ」とフロイトは書いている。
「この同一数字のしぶとい再帰には背後に何か隠された意味があると思うのである。」
「意味もなく反復するものは気味が悪い」というのは言い換えれば、人間にとって「反復するもの」は有徴的に意識され、「ランダムなもの」は無徴候的だ、ということである。
「おお、これは不思議な符合だ」
ということに気づかれる、ということは言い換えれば「符合しない」その他のすべての事例は無視される、ということである。
つまり、人間は「不思議な符合」にすごく興味があり、それが好きなのである。
だから、おそらく人は無意識のうちに、反復を探し求めている。
(フロイト自身ははっきりそうとまでは言ってないけれど)フロイトの理論を展開すると、クロークの引換券がに62番をもらった人は、その次に「番号もの」を引き当てるときに、62番を引く確率が高いような行動を無意識にとる、ということになる。
つまり、電車の切符を買うときに、経験的に62番がどのへんにあるかはなんとなく分かっているので、「喫煙車の、窓側の、進行方向向きの・・・」といった限定を「何となく」つけることで、自力で偶然を引き寄せるわけである。
同じように、さっきのグリーンベリーヒルの殺人事件の場合、グリーンさんとベリーさんとヒルさんが、「よし、強盗やるべ」と衆議一決したときに、「場所は?」という問いに、無意識的に三人が「そら、グリーンベリーヒルしかないべ」と口を揃えた、というのがことの順序であろう、というのがフロイト的解釈である。(ネタが分かると、つまんないですね)
どうして、「偶然の一致」を私たちの無意識が求めるのかについて、フロイトは、『快感原則の彼岸』で、人間は「同一物の反復」が心底好きだからである、という身も蓋もない説明を試みている。
それが「生物の原状」すなわち「死」を象徴するからである。
だから、「執拗な反復」に、私たちが「ぞっとする」のは、その瞬間に、私たちが「死」に触れてちょっと「ひんやり」するからなのである。(グリーン、ベリー、ヒルの三人もちゃんと絞首刑になったし。
(2001-06-06 00:00)