微熱があってたるいのでツタヤでバカビデオを借りてごろごろしている。そしたら「TSUTAYA CLUB MAGAZINE」というフリーペーパーを頂いた。
私はこういうフリーペーパーに掲載されている映画評というものを映画批評としては認めていない。(その理由については『映画は死んだ』の序言に書いてある。)
ひごろ他人の職業にあれこれ差し出がましいことを言わないウチダであるが、映画批評に関してはいいかげんなことを書いてお金をもらっている人間には非寛容である。
なにしろ、私の映画批評は「無料」だからである。
え? 『映画は死んだ』って本出してお金貰ってるだろって?
冗談言ってはいけません。
あれは「自費出版」である。
松下くんも私も、自腹切ってでも映画についてしゃべりたいから本出したのである。
もしお金を頂いて映画の本が出せるのであれば、『映画は死んだ』は二段組 600 頁全 24 巻というようなものになったであろう。(お金がなかったので、258 頁の本しか出せなかったのだ。)
だから、仮にも原稿料をもらって映画評を書く以上は、それなりの緊張感を以て書いて頂きたいのである。
私がひっかかったのは、『シャフト』の解説である。そのまま採録する。
「70 年代、黒人意識高揚のために作られたブラック・プロイテーション映画。数ある作品の中でも特に、黒人のみならず、白人たちからも圧倒的な支持を得た、あの『黒いジャガー』が、スパイク・リーと並ぶブラック・シネマの旗手である、ジョン・シングルトンによってリメイクされた。」(Tsutaya Club Magazine, vol.68, 2001 June)
これはひどい。
どういうふうにひどいか書いた本人は分かっているだろうか?
だいたい「ブラック・プロイテーション映画」って何ですか?
そんな言葉はこの世に存在しない。
存在するのは「ブラックス・プロイテーション映画」である。
「ブラック」と「ブラックス」なんて、単数複数かアポストロフィのあるなしの違いでしょ、いいじゃないですか、堅いこと言わなくても。
ちがいます。
あのね、「ブラックス・プロイテーション」は Blax Ploitation = Black + Exploitation の略語なの。
Exploitation というのはマルクス主義者ご存じの、「搾取」のことである。「搾り取ること」である。
つまり「ブラックス・プロイテーション映画」というのは「黒人意識高揚のための映画」ではなくて、「黒人観客を騙して、金を搾り取る映画」のことなのである。
江戸木純先生によれば、オリジナル『黒いジャガー』(1971)は、「黒人映画の商品価値に気づいたメジャーの映画会社」が「爆発的なアフロヘアー、怒濤のモミアゲと濃厚の口髭、襟がやたらとデカい上着に、タートルネックというよりとっくりセーター、股間パツパツのベルボトムのパンツ、金ピカど派手なアクセサリー、手にした銃はもちろん銀色。ハーレムやタイムズスクエアを大股で闊歩し、いつも脇にはケバケバの女たち(白人を含む)を何人もはべらせている」ヒーローを主人公に映画を作ったら、バカ黒人観客はわいわい見に来るべ、というせこい算盤をはじいて作った最初のメジャー映画である。(「ブラックスプロイテーション映画の逆アパルトヘイト」、『映画秘宝第一巻:エド・ウッドとサイテー映画の世界』1995)
これを「黒人意識高揚映画」と言うのは、不正確というのよりは歴史の歪曲である。
ハリウッド・メジャーというのは、そんな牧歌的なところではない。
もちろん「結果オーライ」で、マーケットが支持すれば、カッコイイ黒人たちを主人公にした映画がたくさん作られ、白人観客もそれに拍手し、それによってアメリカにおける黒人の社会的地位が向上したのであれば、それはそれでよいことかもしれない。
しかし、もともとの動機はひどくダーティだったのである。
そして、まさしく、そのようなブラックス・プロイテーション映画に対する深い嫌悪からスパイク・リーは「ほんとうの黒人のための映画」を作り始めたのである。
「ス」があるかないかというのは映画史的にはけっこう大事な問題なのである。
そういうことを「知らない」のは仕方がないけれど、自分が使う熟語の意味を調べずにものを書くのはよくないと思う。
本人が意味を知らない言葉を使って書いたものを、どうやったら読者は理解できるというのだろう。
私は「不勉強」を咎めているのではない。(私だって「不勉強」では人後に落ちない)そうではなく、「読者を愚弄する」態度を咎めているのである。
(2001-06-03 00:00)