6月2日

2001-06-02 samedi

げほげほ。
まだ風邪が治らない。
正謡会の本番は明日なのに、汗びっしょりでパジャマを濡らして眼をさます。
のどが痛いし、身体が重い。
しかし、合気道のお稽古を二週連続してさぼっているので、今日くらいは行かないとまずい。重い足をひきずって芦屋へ。
すると、松田先生と溝口さんの二人しか来てない。
ウチダがあまりにさぼったので、ついに学生たちからは合気道指導者として見限られてしまったのかとがっくり。
そこに矢部主将が登場。やはり主将は偉い。
ぼくたちだけでも合気道のかすかなともしびを絶やさずにがんばろうねと「喜びも哀しみも幾年月」的な気分になっているうちに、学生さんたちがぞろぞろやってきて、やがて道場いっぱいになってしまった。
来るなら、ちゃんと定時に来て、ひとをテンポラリー佐田啓二にさせないでほしいものである。

今日は林さんの「芦屋道場」でお稽古している小学生二人が参加する。
合気道の芦屋地域普及の「尖兵」となるべきおぼっちゃまたちであるので、なでなでしながらお稽古をする。
驚くべきことに、子どもたちは自分の手や足がいまどこにあって、どの方向を向いている、というようなことを「身体図式」として理解していない。
「はい、前に一歩」と言ったら、とんでもない方向に一歩踏み出す。
ま、たしかに眼が「あっち」を向いていたら、「あっち」が前だわな。
多田先生がしきりに身体軸を中心として「どの方向」に体を捌くかが体術の基本である、ということをおっしゃっていたが、そう言われてよく見ると、うちのお弟子さんたちの中にも、微妙にオリエンテーションが狂っている人が散見される。
ふーむ。
つまりこれは、あれですね。自分を含んだ「風景」というものを、想像的に「俯瞰する」視座を持てるかどうか、という問題にもかかわってきますね。

ラグビーやサッカーでは「スキャンできる選手」と「できない選手」ということを言う。
平尾さんとかナカタくんなんかは「スキャンできる選手」といわれる。
それは、グラウンドの「どこ」に自分がいて、どこに向かっているかが分かっていて、さらにコンマ何秒後かの、自分を含む全選手の位置取りを想像的に「俯瞰する」視点を持っている、ということである。
だから、その一瞬だけ開いた信じられないようなスペースに走り込んでゆくことができる。それは「あ、スペースが開いた」と知覚してから敏速に反応しているのではなく、そこに「スペースが開く」ことを予知しているからできることなのである。
これは単純に「足が速い」とか「フィジカルが強い」ということとはまったく別種の能力である。どちらかというと「身体知」的な能力である。
身体のもっているセンサー能力とか予知能力とか構造化能力のようなものである。
合気道においてボールゲームにおける「スキャニング」能力に似たものは必要であると私は思う。

だから今日小学生を見てびっくりしたのは、子どもというのは実に「自己中心的な」存在だということである。
それは生物的には非常にたいせつなことである。
子どものうちから、「長いものには巻かれろ」だとか「寄らば大樹の陰だよウチダくん」などといっているヤツはろくなものにはならない。
しかし、自己中心的なだけでは「その先」へは進めない。
「その先」、つまり「自分を含んだ風景を俯瞰する能力」というのはいくらどたばた稽古してもなかなか分からない。それ専用の稽古をすることが必要である。
それはどちらかというと「知的な」稽古である。
「知的」といっても「脳的」な知性ではなく、「身体的」な知性の使い方の稽古である。
多田塾の基本稽古では、「四方に変化する足捌き」の稽古をかなり長い時間かけてやる。
この稽古の「意味」が分かっていない人もいる。
それはどちらかというと、「剛腕」タイプの武道家である。多少体の位置取りがわるくても、力でねじふせ、速い身体の使い方で技をかけることができるタイプの人は、スキャニングの稽古の意味がつかみにくいのかも知れない。
「ぼくの身体は頭がいい」というのは橋本治先生の名言であるが、たぶん合気道の稽古のかなりの部分は「身体を頭よくする」ための稽古である。

こういうことは小学生を教えたりしていると、ふっと腑に落ちる。
だから、いろいろなタイプの人を教えるのは、修業上とても大切なことなのである。
林佳奈さんが芦屋道場を開いたことはとてもよいことだと私は思う。学生諸君が指導に当たっているが、これは必ず諸君の術技の向上に資するところ大であろう。
「なぜ、この子はこの動きができないのか?」ということの「意味」を探求すると、いろいろなことが分かってくる。そして、それが分かれば、「できる」ようにする方法も分かるんだよ。
おっと、また「説教モード」にはいっちまったぜ。