5月30日

2001-05-30 mercredi

下川正謡会の「申し合わせ」。
「申し合わせ」というのは別に「密談」とか、そういうことではなくて「リハーサル」のことである。
朝から夕方まで湊川の能楽堂で囃子方や地謡を本番とおりまじえてお稽古をするのである。
私ははじめての舞囃子なので、「初申し合わせ」である。
どきどき。
ちょっとあがってしまって、最初のすり足で「ちゃかちゃか」と歩いてしまって、下川先生に「これくらいのことで、いつものことができなくてどうしますか」と叱られてしまった。(ゆうべあれこれ書いていたけれど、さすがに一夜漬けでできるようなものではない。とほほ)
しかし、客のいない能楽堂で能楽のお稽古をするというのは、よいものである。
お囃子の先生たちも、普段着や紗の着物なんかでリラックスしている。
私は紗とか絽の着物なんか持ってないので、ウールの着物。ちょっと暑かった。
来年に備えて、一着、洒落た夏の着物を買ってしまおうかしら。
今週はあと二日お稽古がある。
必殺能楽週間はまだまだ続く。
それに並行して今週はまた「必殺文部科学省提出書類猛然製作週間」でもある。
いつになったら、私に安息の日々は訪れるのであろうか。

ベトナムの友人ビン君から「秋に日本に遊びに行きます」というメールが届いた。
ビン君は、たしか 96 年のブザンソン研修のときに知り合った、私の「うまれてはじめてのベトナムの友人」である。
教室に入っていったら(研修では私も「上級クラス」で会話のお勉強をしていたのである)となりの席にすわっていた色黒のアジア人の青年が、いきなり日本語版(あたりまえだね)『地球の歩き方』を取り出してきて、「ね、この字なんて読むんですか?」と訊ねてきた。
私は見知らぬアジアの青年に、フランス語の教室で、いきなり流暢な日本語で話しかけられたこのにびっくりした。
それから私はビン君と仲良しになって、毎日いっしょにカフェに行ったり、ビールを呑んだりして、ベトナムについていろいろと教えてもらった。
私はかつて「ベトナム反戦」を闘争課題のひとつに掲げた政治運動にかかわったことがあるので、「ベトナム」と聞くと、その瞬間にとりかえしのつかない「疚しさ」にさいなまれてしまう。

どうもすいません。おれたちの反戦運動や反基地運動が腰砕けだったせいで、ベトナムのひとたくさん死んだんだよね。おれたちはほんとは B52 に爆弾投げて基地突入とかすべきだったのに、「ベトナム戦争はんたーい」とシュプレヒコールするだけで、あとはデートしたり、映画みたり、酒のんだりしてたんだよね。いい加減で、ごめんね。

というような「うしろめたさ」があるので、前に総文に来た広州の中国語の先生が「私はベトナム戦争のときにベトナムでアメリカ軍と戦っていました」という話をきいたときにも、思わず土下座そうになってしまった。
しかし、ビン君は、そういう私の「被抑圧者=ルサンチマンの権化」としてのベトナム人というイメージからは隔たるところ遠い、「ベトナムのシティボーイ」であった。
ビン君はダナン市で「旅行代理店」を営む富裕なご家庭のご子息で、ベトナムでは数少ない大学進学者であり、給費留学生としてフランスに送られ、帰国したあとは研究者か教師になる予定の、スーパーエリートである。
そのエリートのビン君のそのときの熱い関心の対象は「日本」であった。
彼が私の社会と文化に対して抱いているほとんど異例な「親近感」に私は驚いた。
私のがわには「疚しさ」があり、彼のがわには「親近感」がある。
この「ずれ」はいったいどのような歴史的文脈のなかで生まれてきたのだろう。
それについてもっと知りたいと思いながら、短い滞在期間は終わってしまった。
でも私は「私はベトナムについて、ほとんど何も知らない」ということを学習した。
秋にビン君が来たときはうちに泊まってもらうので、ゆっくり教えてもらおう。