5月29日

2001-05-29 mardi

「死の合気道月間」が終わって、今週は「必殺能楽週間」である。
ときどき、「働き過ぎのサラリーマンは退職後にそなえて趣味を持ちましょう。それが豊かな老後の秘訣です」などということを書いている人がいるけれど、「豊かな老後」に備えておさおさおこたりなく趣味に没頭していると、「趣味のし過ぎによる過労死」というたいへん危険な状態に陥る可能性もある。
私の場合、「趣味」をこなすために「本業」はそのつど後回しになっており、そろそろ関係各方面から「ウチダくん、なんのために大学は君に給料払ってるとおもっとんのかね」という非難の声がまじで迫ってきそうである。
すまない。
それでも、今週は『猩々』のお稽古が最優先である。
だって、いま舞の稽古で、「序破急」の身体運用リズムに薄目が開いたところだからである。
この機会を逃すわけにはゆかないのだ。
「序破急」というのは、「序盤のゆるやかな運動」と「後半の激しい運動」のあいだに「動きの質を変化させる断層」が入る、という運動の構造法則のことである。
そのことは誰だって知っている。
これを私はこれまで武道の技の中で考察してきた。
「動きの質の変化」が劇的であると、これは「消える動き」というものになる。
つまり「序」の運動から「当然予測される次の空間的な身体の位置や方向や速度」と、「急」の運動のあいだに「つながり」がないと、身体は一瞬「期待の地平」からかき消えるのである。
それが武道的な意味での「速い動き」「強い動き」である。
舞のすり足の訓練で、私は「ゆっくりした歩き方」と「速い歩き方」がある、ということを最初に学んだ。そして、なんとなく「ゆっくりした歩き方」が「序」で、「速い」のが「急」かな、と因習的に想像していたのである。(実際に、そのようにクレッシェンドで歩調が速まるように私たちは教えられる。)

「じゃあ、歩き方における『破』って何だろう?」

よくわからない。
その「破」が何か、それを最近知ったのである。
序破急は「一歩」のうちに含まれていたのである。
すり足で進む「一歩」そのものがすでに「序破急」で構成されていたのである。
ロシアの「入れ子人形」みたいなものである。
すり足で踏み出す一歩は「踵を床から離してはいけない」という約束事によって、きびしい「ため」を強いられる。しかし、重心は前に移動してゆくので、踵はついに耐えきれなくなる。しかし、そこで床を離れた踵は、宙には浮かない。浮くことが許されない。そのまま床を滑るように前方へ送り出され、ふっと爪先を浮かせて着地して安定を回復するのである。
不思議な運動だ。
だって、「浮きたがっている」のは踵なのに、「実際に浮く」のは爪先なのである。
変でしょ?
ここには運動の「矛盾」がある。
この矛盾をかろうじて成り立たせているのが、「床を離れたがっているのに離れることのできない不条理な踵」である。
これがつまり「破」だったのである。
初心者の舞は、踵が浮きたがっている「ので」、踵が浮く。プロの舞は、踵が浮きたがっている「のに」、爪先が浮く。
初心者の歩みには矛盾がなく、プロの歩みはその矛盾を実現させてしまう技術的な裏付けがある。
それゆえ、わずか一歩を歩むだけの動きのうちに「運動の消失」があり、「運動の質の変化」があり、「ドラマ」があるのである。
下川先生の足を凝視しているうちに、私はそれに気づいた。
なぜ、私の一歩は「ただの前進」であり、先生の一歩はすでに「舞」になっているのか、どこが違うのか、それが少しだけ見えたのである。
そして、ただ一歩、歩幅にして 20 センチを移動するために、これだけ高度な技術を要求する能のコレオグラフィーの精妙さに私は感動するのである。
私はもちろんまだそのような運足をすることが「できない」。
しかし、そのような運足を「しなければならない」ということは分かった。
何をすべきかが分かったということは、「できる」方向にむかって正しく照準したということである。このあと、できるかどうかは「時間の問題」であり、時間の問題である以上、必ず、いつかは、できるようになるのである。
こういうふうにわずか一歩を歩むだけしぐさの求める技術の複雑さに感動しているわけであるから、その他の無数の舞の手捌き足捌きの構造と意味について考えたらいくら時間があっても足りない。
「サシ」の腕の運動が、動かす腕の関節を「回転させる」ことによってではなく、反対側の半身を「消す」ことによって成り立つということは、杖道の稽古で鬼木先生から繰り返し教わったので、ほとんど同じ言葉を下川先生に言われても、いまではそれが何を求めているのかを理解できる。
これらの断片的な了解は、いずれ少しずつまとまりをみせ、ある程度体系化されたときに、「舞の身体論」として学術的結実を見ることになるであろう。
というわけなので、私は趣味に没頭しているのではなく、実は学術研究に没頭していたのですよ、みなさん。
それと知らずに、私、仕事してたんですよ。
はははは。
ははははははははは。