怒濤の5月がようやく山場を超えた。
今月は、3、4日神戸女学院合気道会十周年記念講習会・演武会、19、20 日広島県支部春季講習会、26 日全日本演武会、27 日五月祭演武会。
疲れたけれど、充実した一ヶ月であった。
土曜は日本武道館で全日本演武会。全国の合気道家が年に一度、一堂に会する合気道の「お祭り」である。
合気道は演武だけで「競技」ということをしないので、参加した 5000 人は全員がある意味では「主役」である。だから、終わった後はみんな充実感でにこにこしている。5000 人がにこにこしている集会というのもけっこう壮観である。
恒例のとおり、多田塾で記念撮影のあと、どどどと九段会館屋上ビアガーデンにて多田塾ビールパーティ。はじめてこの場所で打ち上げをしたのはもう 15 年ほど前。年毎に参加者が増え、今回はイタリア合気会から三大学まで、多田門下のほとんど全道場から人が集まってきたので、120 人くらいになってしまった。
そのあと学士会館に泊まる飯田先生とウッキーを三人で「すずらん通り」にて二次会。さらに飯田先生とビールをのみながら三次会。
去年は飯田先生と午前2時過ぎまで飲み続けていたせいで、すさまじい二日酔いで五月祭の演武をするはめになった。今年は反省して、「缶ビール一本だけね」とあらかじめ約束して飲み始めたのであるが、うっかりフェミニズム論争に踏み込んでしまった。
悔やんでも後の祭り、尾を踏まれた虎は当然のごとく猛チャージ、こちらも、簡単に矛を収めるわけにもゆかず、わいわい論争しているうちにはや午前一時。ああ、また寝不足。
しかし、フェミニズム論争ではどう終わったときも、いつもこちらが「加害者」(無意識な、あるいは確信犯的な)であるような感触で話が終わる。(マルクス主義者や被抑圧民族主義者と論争するときもそうだけれど)
こちらが論争に勝ったのならともかく、言い負かされた上に「加害者」気分になってしまうというはなんとなく間尺に合わない。
でもこのときの議論ではちょっとだけ面白い話題が出た。
それは「平等」ということのもたらす一種の悪夢についてである。
社会的な差別化指標としての性差を全廃した場合、人間たちを分類する基準はどういうものになるだろう。
フェミニストが主張するように、性差や人種差や国籍、宗教、イデオロギーを問わず、人間の「クオリティ」だけを基準にして人々を階層化する、ということになると、理論的にはその先には完全な「能力主義社会」というものが出現することになる。
すべての社会的な初期条件を同一に整えた上で、全員が結果的にあらわれた能力差によって階層化される社会というのは、しかし、それほど住み良い社会だろうか、そもそもそのようなものを私たちはほんとうに望んでいるのだろうか?
男女の性差をフェミニストは「権力関係」や「階層差」というふうに「ほんらい均質的なものが作為的に分離された状態、ほんらい均等に配分されるべきリソースが偏在化されている状態」と規定する。
社会的リソースの配分が出発点においてすでに不平等である、ということに私は反対である。その点ではフェミニストと変わるところはない。しかし、それを徹底することに私は抵抗を感じるのである。というのは、初期条件が完全に平等であるため、結果的には、「すべての達成は個人的努力の功績に帰される」社会というのは、一種の悪夢ではないかと思うからなのである。
これは「完全な能力社会」である。そこでは性差も人種差も年齢差も宗教差も、どのような社会的な区別も人間の差別化をともなわず、ただ「すぐれた人間」と「そうでない人間」だけが差別化される。
これはある意味では「究極の競争社会」である。
性差が有徴的である社会(私たちの社会のような)において、社会的リソースの分配には性差による偏りがあるとけれど、その代償として、性間の「競争」と「闘争」は微妙な仕方で回避されてもいる。
それは、有徴的な性差が強いエロティックな感情を性間に醸成し、それが性間の社会的矛盾を隠蔽し、意識化させないように機能しているからである。
逆に、社会的リソースの分配に偏りがあるが、エロティックでない関係というものはいくらでも存在する。
例えばふつう「社長」と「平社員」のあいだにエロティックな感情は生じない。
しかし「親分」と「子分」のあいだや、「皇帝」と「奴隷」のあいだ、「貴族」と「召使」のあいだのむすびつきは、サラリーマンの上下関係より、おそらくエロティックなものである。
なぜか。
その違いはおそらく「差異が決定的か、のりこえ可能であるか」の違いから生じる。
「皇帝」を仰ぎ見る「奴隷」は、自分が彼と融合したり、立場を入れ替えたりする可能性をほとんど想像することができない。
しかし「社長」を見る「平社員」は、「いずれ俺も・・・」と想像したり、社内派閥闘争を利用して社長一派を追放する日のことを想像することができる。
つまり、成員の均質度が高く、差別化が個人的能力の差に多く依存するような人々のあいだの関係は「非エロティック」なものとなり、個人の努力では超えようのない差異で隔てられた人々のあいだの関係は「エロティック」になる可能性が高い、ということが言えるわけである。
フェミニストが夢想している理想社会は、このような視点から言うと、社会からほとんどすべてのエロス的要素が払拭された社会のことである。
言い換えると、すみずみまでが「下克上サラリーマン集団化」したような社会である。
私はそんな社会にはあんまり住みたくない。
私は「超えがたい差異」が意識され、なお「それを超えて結びつきたい」というロマンティックな感情が横溢し、エロティックな欲望が人々の社会的態度の決定にふかく関与するような社会の方が、「全員が算盤ずくの下克上サラリーマン社会」より好きだ。
というようなことを言いかけて、眠くなったのでやめてしまった。
私はこのところずっとレヴィナスの「エロス論」というものを考えている。
それについて書かれたものをいろいろ読むのだが、どうも腑に落ちない。
それは「差異は維持されねばならない」というレヴィナスの基本的な考想と、フェミニズムやマルクス主義に代表される「差異は解消されねばならない」という「常識」のあいだの根本的な「ずれ」を私がうまく言葉にできていないからなのである。
レヴィナスの思想は別の言い方をすれば、「人間と人間の関係はエロティックなものであるべきだ」というものである。私は最近そう思うようになった。
それは「もともとエロス的なものが男女のあいだにあるから、それをドライブして・・・」というようなベタな実在論ではない。
「エロティックなもの」とは知的、倫理的な努力によって他者とのあいだに「構築されるべきもの」なのである。
「エロティック」ではあるが「権力的」ではないような関係をどのように私たちは他者ととりむすぶことができるのか?
その問いを私はこのところいろいろ考えている。
考えているのだけれど、思弁は奔逸するだけで、さっぱり深まらないのである。
27日は東大五月祭の気錬会演武会。
あいにくの雨だったけれど、熱気あふれる演武会だった。うちからは矢部、林両君と私が招待校演武に出させて頂く。
気錬会は会員 60 名の由。層の厚さは羨ましい限りである。うちも新入部員をもっと獲得しないと。
気錬会の諸君にはたいへん鄭重なおもてなしを受けた。この場を借りてお礼申し上げます。鍋野主将はじめ、みなさんどうもありがとうございました。また来年もよろしく。
6月3日は月窓寺道場の 25 周年でご招待頂いたのだが、私は下川正謡会の本番なので、残念ながら欠席。次に同門のみなさんとお会いするのは秋の多田塾合宿と 11 月の自由が丘道場の 40 周年記念演武会である。
多田先生をお見送りしてから、雨の中を帰る。帰途はウッキーと二人旅。
新学期以来副将として大活躍のウッキーもこれでお役御免。来月からは修士論文に専念することになる。ウチダも、それにともなってウッキーをさんざんこきつかった「師範モード」から、ウッキーをいじめまくる「指導教員モード」に切り替えである。
生き方が変わっても、私にこずきまわされるという基本スタイルには何の変化はない。あまり気の毒なので、ステーキ弁当とビールを奢って労をねぎらう。
(2001-05-28 00:00)