5月16日

2001-05-16 mercredi

人間 50 にもなると身体の節々が痛んでくる。
40 代もなかば過ぎる頃からあちこち痛み出す。最初は「困ったなあ」と思って、病苦を「治癒」の対象とみなし、病因の特定→患部の摘出 という外科的な図式で病をとらえていた。
しかし、あまりぱっとしない。
考えてみれば当たり前で、中年すぎてからの病気というのは、「他が全部健康で、特定の器官だけが単独に機能低下する」というものではなく、「身体のシステム全体」が失調しはじめると、その「最も弱い環」から切れ始めるという仕方で発症するものである。
患部を「敵視」して、それを「えぐり取れば」、もとの健康、「原初の清浄」が回復されると夢想するのは、身体システムの見方としては適切ではない。(社会システムの見方としても適切ではないが)
病気は「システム全体の失調」のサインである。

「そろそろ『おつかれさん』の時間だよ」

という「終わりの合図」である。
小学校の頃、放課後遊んでいるとドボルザークの『新世界』の「遠き山に陽は落ちて」という曲がかかって「さようなら、さようなら、下校の時間になりました」という放送部のアナウンスが始まった。それが聞こえると、遊んでいる子ども達は、「じゃ、これで最後ね」というふうに言い交わしてゲームを切り上げ、放り出してあったランドセルの泥を払い落とし、いっしょに帰る相手とゆるゆると校門に向かったものである。
「おじさんの病気」というのは、あの「下校の時間になりました」のアナウンスと同じ機能をもっている。
これが聞こえたら、ぼちぼち「あとかたづけ」を始めろ、ということである。
合気道のお師匠さまである多田先生によれば、「病と対峙せず、病とともに生きる」のが正しい病との接し方であるという。
『陰陽師』では安倍晴明も同じことを言っていた。「悪霊と対峙せず、悪霊と折り合いを付けながら共存する」のが正しい鎮魂の作法である、と。
「病気とともに生きる」のも「悪霊と折り合いを付ける」のも、構えとしては同じことである。それは、「おのれを害するもの」と人間はちゃんと付き合っていけるんだから、まあ、じたばたすることはないよ、ということである。
もちろん「おのれを害するもの」との永遠に共存できるわけではない。
そうすることで、私たちは、ちょっとだけ「死神」から時間をかすめ取るだけである。
でも「無限にある」と思い込んでいる時間と、死神からかすめ取った時間では、その「かけがえのなさ」が違う。時間の密度が違う。時間の厚みが違う。
多田先生が「病とともに生きる」ことの大事さを繰り返し強調されたのは、そうすれば「健康にもどる」からではない。そうやって生きる方が人間は運命に与えられた時間を豊かに、かつ愉快に過ごすことができるからである。
私たちにもいずれ武道の稽古ができなくなる日が来る。
武道人生の「終わりのチャイム」が鳴ったときの対処の仕方について、私たちは素晴らしいロールモデルを有している。
そう、「宗方コーチ」である。

彼に選手生命の終わりは唐突に訪れる。そして、そのあと、テニスプレーヤーとしての絶頂期を「自分のプレーヤー生命にいつか終わりがくる」ことを一度も予想せずに過ごしてきたことにきづき、深く恥じ入るのである。そして、彼は愛弟子の「ひろみ」に私の失敗を繰り返すなと諭し、「この一球は唯一無二の一球なり」という言葉を伝える。

『エースをねらえ!』を読んだとき、私は 20 代のなかばであり、それまで自分にもいずれ武道家人生の終わりがくるということなど考えたこともなかった。
でも、『エースをねらえ!』を読んだ私はいずれ必ず訪れる武道家人生の終わりのために、一日一日の稽古を、一本一本の技を、「唯一無二の、かけがえのない経験」として生きるようにしようと決めた。(若いのに感心である。)
それから 25 年経った。いま「終わり」が来ても私は平気である。
だって、「思い残す」ことなんか何もないからだ。毎日、「今日が最後の日かもしれない」と思いながら稽古してきたからである。
師に恵まれ、道友に恵まれ、弟子に恵まれた私にいまさら「やり残した」ことなんかあろうはずがない。
レヴィナス先生は、倫理の根元的形態とは「お先にどうぞ」という言葉に集約される、と書いている。
「そんなの簡単じゃないか」と言う人がいるかもしれない。
エスカレーターの前や、ドアの前で「お先にどうぞ」と言うことはそれほどむずかしくない。
でも「タイタニック号、最後のボートの最後のシート」を前にして「お先にどうぞ」と言うのはそれほど簡単ではない。
レヴィナス先生は、あらゆる場面で「お先にどうぞ」と言い切れること、それが倫理的に生きるということの具体的なかたちである、と論じている。
これはとってもむずかしい。なぜなら、「やり残したこと」がある人間は強い意志をもって欲望を抑制しないかぎり、その言葉を口にすることができないからだ。
「やり残したことのない」人間にはそれほどの克己心は要らない。だって、もう「やり残したことはない」からだ。「ま、いいすよ。おいらは。人生じゅうぶん愉しんだし」と本心で思っているからである。
人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。
そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼ぶ。
幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことだ、と私は思う。
だから「終わりですよ」と言われたら、「あ、そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができるのが「幸福な人」である。
「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、生き続けても結局幸福になることのできない人である。
幸福な人は、自分が幸福なだけでなく、他人を幸福にする。だから、私はみんなに幸福になって欲しいし、幸福になる努力をして欲しいと思う。(おおっと、なんだか武者小路実篤の文章みたいになってしまった。)

つまり何だね。ウチダくんみたいに、「永谷園のお茶漬け海苔」でお茶漬けしながら、目を細くして「ぐふ、うんめー」というようなタイプの人間は死に臨んでも「美食を食べ残した」というような後悔をすることがない、ということだね?
うーん、ちょっと違うような気もするけど・・・そうなのかも。