5月15日

2001-05-15 mardi

週末は両親と兄と四人で、山形旅行。
山形県鶴岡は内田家のルーツのひとつである。
幕末に武蔵嵐山の郷士内田柳松(りゅうまつ)は江戸の治安部隊である「新徴組」に応募して動乱のときに佐幕の志士として活動した。この人が私の高祖父である。
新徴組は(新撰組が会津藩お預かりであったように)譜代の庄内藩酒井家お預かりであったため、江戸退去に際して、柳松さんは庄内藩の江戸詰め藩士とともに鶴岡に下り、そこで戊辰戦争を戦った。
柳松さんの跡目をついだのが内田維孝(いこう)。この人が私の曾祖父。事績については知られていない。
そのあとが重松(しげまつ)。この方が私の祖父である。戦前になくなったので、私はもちろん顔を知らない。鶴岡に育ち、師範を出て教師になったが、その性いささか狷介にして、繰り返しつとめをしくじって、生涯不遇のまま鶴岡、酒田、鼠ヶ関、さらには帯広、旭川を教員として転々として仙台に没した。
私の父は酒田で生まれ、鶴岡で六歳まで過ごし、そのあと北海道に渡ったのである。
今回の鶴岡ツアーは、この重松さんが大正八年に建てた「内田家累代之墓」に詣でて、高祖父以来のご先祖さまおよび亡き伯父上たち(顕士、秀雄、博郎)の霊を弔い、あわせて父親が「子ども時代をすごした場所」を探訪するためのものである。
どうも年を取ると「ルーツ」にこだわりを感じるようになる。
十代のころは「おいらはおいらだい。ご先祖さまなんてしらねーよ」で気楽に通してきたが、30 を過ぎたころに、ふと「生まれた街」を見たくなった。
ふらりと訪れた自分の生まれた家を眺め、遊び暮らした路地の狭さに驚いた。
齢知命に達するに及んで、「父母の生まれた街」が見たくなってきた。論理的に考えると、そのうち「祖父母が生まれた街」が見たくなるはずである。
これはいったいいかなる意識のなせるわざなのであろう。
たぶん「何かを継承している流れの中に位置づけられたい」という欲望が私たちのうちにはあるのだろう。
自分が生まれてきたのは、何かを受け継ぎ、次代に伝えるためである。私たちは漠然とそんなふうに考えている。
私はなんとなくある種の「エートス」のようなものを受け継ぎ伝えることが自分の「ミッション」ではないか、というふうに思うのであるが、その「エートス」とは何か、とあらためて問われると、よく分からない。
たぶんそれが知りたくなって「内田家累代之墓」を眺めに行ったのであろう。
内田家の墓を眺め、祖父が不遇をかこった鼠ヶ関の海を眺めて感じたのは、「負けっぷりのよい一族」の自分が末裔である、ということであった。
山形は空気がきれいで、海がきれいで、食べ物の美味しい土地であった。
またゆきたい。