5月11日

2001-05-11 vendredi

小林昌廣先生と田川とも子先生に院生たちをまじえて「新学期顔合わせ」宴会。
さすがに関西にきて 11 年になるので、ふだんずいぶんゆっくりしゃべるようになったけれど、小林先生としゃべっていると、私の中の抑圧されていた「早口でしゃべりまくりたい欲動」が活性化してきて、アルコールがはいると、「ぷつん」と切れてしまう。
「早口」というのは、一定の速度を超えると、「頭脳の回転」より「舌の回転」の方が速くなる。
つまり、その場合、「自分がしゃべっているのを聞きながら、自分が何を考えているかを知る」という倒錯的事態が発生するわけである。
むろん、誰かれかまわずそのようなことが起こるわけではない。
小林先生のように、ご自身もまた「舌の回転」が「脳」をオーヴァーランしちゃっているようなタイプの「超高速アーティキュレーション」に触れてはじめてこの現象は起こるのである。
これは一種の快感をもたらす。
というのは、そのときに、思考と思考が言語を媒介として交通するのではなく、言語と言語がじかに「びしっ」と言う感じで触れ合うからである。
言葉に言葉が感応する。舌が勝手につぎのフレーズを引きずり出してくる。
「売り言葉に買い言葉」の自動書記状態である。
これって、ちょっとジャズにおけるインプロヴィゼーションに近い。ミュージシャンは決して頭の中に描いた音符を演奏しているわけではない。身体が「もう」音を出しているのである。
そのときの話題は「身体はものを考える」ということ(これは前日の橋本治ネタのつづき)と、その逆に「極限にまで純化された身体表現は脳を剥き出しにする」というダンスの話。
そこで、身体は物質的というよりむしろ脳的であり、知性は脳的というよりむしろ身体的であるという話になる。
しかし、「舌が脳化」したふたりの恐怖の早口男の知的高揚も、田川先生のピアッシングのお話の「痛み」の前にもろもろと崩れてしまったのであった。
脳には痛覚がないから、「痛さ」勝負では勝ち目がありません。