5月10日

2001-05-10 jeudi

橋本治『「わからない」という方法』(集英社、2001)を読む。
私は『桃尻娘』以来の忠実な読者として久しく先生の叡智を称える顕彰事業に携わってきたが、先生のご明察、近年ますます冴え渡り、まさに天馬空を行くの境にある。ご高著一頁繙くごとにわが俗眼からは鱗が落剥し、我が家の床は剥離した鱗によってほとんど七色に輝いている。
最新刊をパジャマすがたでウイスキーを喫しつつ拝読する。まず「まえがき」にびっくり。
長いけれどそのまま引用する。

本書のタイトルは、『「わからない」という方法』である。

しかし、「わからない」などということが、果たして「方法」となりうるのだろうか? 人は普通、「わからないから方法を探す」のであって、「わからない」ということを「方法」にはしない。だいたい、そんなものが「方法」になるはずはない。ところがしかし、人に「あなたの方法論は?」と問われて、それに答える自分を撮り返ると、私はいつも、「だってわからないから」と言っているのである。(…)
「なぜそんなにもいろんなことに手を出すのか?」ということになれば、その理由はいたって簡単である。「わからないから」である。「わからないからやってみよう」とか、「こんなにも"わからない"と思ってしまった以上、自分のテーマにするしかないな」などと思う。(…) それで「書く」と決めた場合の私の答は、だいたいがところ、「じや、わかんないから書いてみます」になっているのである。
気がついたら私の場合、「わからないからやってみる」と、「わからない」を「方法」にしてしまっているのである。
「わからないこと」を書けるわけがない。そんなことをしても、文章がまとまらない。しかしある部分では、「わかる」というような気がする。「わかるような気がする」という断片がいくつもフワフワと漂っていて、それが一つにまとまらない。なぜまとまらないのかと言えば、全体像が「わからない」からである。「わからない全体像」は、まとめようがない。「わからないんだからわからない」である。
しかし、この「わからない」の全体像をまとめる方法が一つだけある。それは、「自分はどのようにわからないのだろうか?」と考えることである。
(…) 「わからない」を生み出すのは、「自分の頭」なのである。さまざまな「わからない」はあったとしても、その「わからない」は全部、「自分の頭」という一つのものに由来しているのである。そう思った時、"方向"は一つになりうる。つまり、「自分はどうわからないのか?」を考えてしまえば、さまざまの「わからない」が、全部「自分の頭」という一つのところに収まってしまうからである。
「自分はどうわからないのか?」―これを自分の頭に問うことだけが、さまざまの「わからない」でできあがっている迷路を歩くための羅針盤である。「自分はどうわからないのか?」―それこそが、「わかる」に至るための"方向"である。その"方向"に進むことだけが、「わからない」の迷路を切り抜ける「方法」である。「自分はどうわからないのか?」―これを自分の頭に問うとき、はじめて「わからない」は「方法」となるのである。

これに付け加えるべきどのような言葉があるだろうか。
哲学的反省とは、「私は知っている」ではなく、「私は知らない」から始まる。平たく言えば、「おのれのバカさの構造」の分析から始まる。これは私の年来の主張である。
すべからく哲学を志すものは、自分の思考がどれほど多くの臆断と偏見によって領されているかを列挙する「バカ自慢」からその省察を開始すべきであると私は考えているが、これまでこの思想に同調してくれる人はあまりいなかった。
しかし、ここに橋本先生の力強いご同意を得たわけである。
橋本先生の「ものを知らないこと」こそ叡智への本道である、とする思想はさらに後段に至って、「ものを考えるのは脳ではなく、身体である」という過激な主張へと展開してゆく。
先生は「僕の身体は頭がいい」と言う。

「バカかもしれない」とか「へん」とかいうものが、いつも私につきまとい続けるということだが、私は自分の身体に100%の好都合を感じているので、べつに「バカ」でも「へん」でもかまわないのである。(…)
身体とは知性するものである。脳は「わからない」という不快を排除するが、身体という鈍感な知性の基盤は、「わかんないもんはわかんないでしょうがないじゃん」と、平気でこれを許容してしまう。であればこそ、身体は知性を可能にするのである。(…)
「わからない」は身体に宿る。これを宿らせたままだと、「無能」とか「不器用」としか言われない。それはサナギの状態だから仕方がない。脳の役割があるのだとしたら、そのサナギになってしまった身体を羽化させることだけである。
サナギを羽化させるために脳がするべきことを私は一つだけ知っている。「自分の無能を認めて許せよ」―ただこればかりである。

私はみずからの実感として橋本先生の「身体が知性する」ということを信じる。
私が「知的に」耐え難いものはすべて、その没論理性や不合理性を私の脳が感知するよりさきに、身体が拒絶してきた。
ロジカルには筋が通っている(らしい)話や、自分の手持ちの知識ではどうにも反論できない話を聴いているうち、「鳥肌が立つ」とか、「じんましんが出る」とか、「げろを吐きそうになる」ということが私の場合にはこどものころからしょっちゅうあった。
そういうとき、私は自分の脳よりも身体を信じて、その場から遁走するのがつねであった。
そのスタンスはいまにいたるまで変わらない。
この「身体的知性」は自覚的に開発させてゆくと、どんどん強化することができる。
高橋源一郎は、どのような本も最初の一頁を読むだけで、それが読むに値する本であるかどうかを判定できる、といばっていたが、橋本治先生が「その本の題名を誰かが口にするのを聞いただけで、その本が読むに値するか否かを判定できる」と豪語していると伝え聞き、「負けた」と思った、と述懐している。
私は橋本先生ならそういうこともあるだろうと思う。
そのような高度なわざはそのための身体感覚を選択的に磨き上げてきた人にしかできない。けれど、意識的に鍛錬すれば、決してそれほどにはむずかしいことではないようにも思う。
たとえば、「むずかしい思想」というものがある。
その「むずかしさ」には、「私にゃかんけーないから、どうでもいいや」という類のむずかしさと、「私の今後の人生になんだか深い関係がありそうなので、早急になんとかお近づきになりたい」むずかしさの二種類がある。
この見極めができる人とできない人がいる。
これは純粋に身体的な知性のはたらきである。
できない人は、その人の身体が拒否している勉強を一生懸命やって、身体を壊したり、精神を病んだりする。(「むずかしいもの」のうちにはときどき強烈に毒性の強いものが含まれているから)
できる人は、「自分の役に立つむずかしさ」だけに選択的に取り組めるので、愉快な気分でバカからの脱出路を発見することができる。
しかし、そういう身体の知性の使い方について教えてくれる人はすくない。

橋本先生の洞見のうちもう一つ印象深かったのは、「記憶は身体に宿る」という考え方である。

記憶というのは身体に宿って、有能な身体は、その記憶を必要に応じて取り出す。ただそれだけのことなのだ。私は、自分自身の経験に従って、そのように判断する。(…)
身体もしゃべる。身体も考える。ただしかし、それを可能にするには、かなり時間がかかる。ただそれだけのことである。
私は長い時間をかけて、けっこういろんな「能力」を我が身に宿らせているのである。問題は、その能力の多くが「当座は何の役にも立たないもの」でしかないことである。役に立たないから、平気で眠らせている―つまりは「忘れている」。しかし、「忘れている」ということは、「どっかにある」ということである。どっかにあって、それを内蔵している私の身体は、「俺を使ってくれよ!」と騒ぎ立てるのである。そういう身体を持っているから、なんとかなるときにはなんとかなってしまうのである。(…)
私にとって「生きる」ということは、自分の中に眠らせている「能力にも値しない能力」を「能力」として復活させてやることでしかないのかもしれない。しかし、それがなかったら、生きていてもきっとおもしろくはなかろうと思うのである。

私ウチダもまたさまざまな「能力」とよぶには値しないような「能力」や、「情報」とよぶには値しないような「情報」を無意識のうちに身体に山のようにためこんできた。
しかし、それは私の身体が「いつか使ってやろう」と思って選択的にとりこんだリソースである。それが「使って!」と言い立てるような「状況」を作ってやれば、それらのリソースは骨の髄まで有効利用できる。
だから、問題は、どのように「自分の身体が知りたがっていること」を知り、「自分の身体が表現したがっていること」をしゃべらせてやるか、ということになる。
たとえば、私たちの身には「あ、今日、強烈にトンカツがたべたい」というようなことが起こる。「腹がトンカツ型にへこんで」しまって、そこにはもうトンカツ以外のものが入り込むことができないようなしかたで空腹が形成されることがある。
これを知的水準で展開すればよいのである。
「ああ、なんだか無性にハイデガーが読みたい」とか、「いまもーれつに永井荷風な気分」とかいうことが私の場合、間欠的に訪れる。このばあいのハイデガーは身体知にとっての「トンカツ」と同じである。
こういうときには「ぱくぱく」食べるとどんどんこなれて栄養になる。
読みたくもないものや知りたくもないことを勉強するのは、ブロイラーに給餌しているのとおんなじである。ブロイラーは自分のために食べているのではなく、誰かに「食べられるために」食べているのである。
お、なんとなく哲学的なおちがついたので、おあとのしたくがよろしいようで。