5月6日

2001-05-06 dimanche

小泉首相の改憲発言と憲法記念日が重なって、改憲論議が盛んである。
今日の「サンデープロジェクト」でも、九条の改訂が議論されていた。
考えてみたら、憲法問題について私はまだこのサイトに一度も意見らしいことを書いたことがない。
この機会に私の立場を明らかにしておこう。

私は九条の改訂には反対である。
ただし、私の憲法観はいわゆる「護憲」派のそれとはだいぶ違う。自衛隊についての考え方も違う。それについて書きたい。
まず最初の確認。
法律は、「よいことをさせる」ためではなく、「悪いことをさせない」ために制定されている。私はそう考えている。
経験的に言って、人間はプラスのインセンティヴがあったからといって必ずしも「よいこと」をするわけではないが、ペナルティがなければほとんど必ず「悪いこと」をする。
これは自信をもって断言できる。

憲法九条は「戦争をさせないため」に制定されている。
なぜなら「人間はほうっておけば必ず戦争をする」からである。

これが憲法論議の大前提である。
これは護憲、改憲を問わず、どなたにも了解していただける前提だと思う。
とすると、論理的には「では、どうやったら人間に戦争をさせないようにできるか」という問いが次に来る。
「戦力を持たない」というのがいちばん簡単だが、日本はもう戦力を持っている。
だとしたら「戦力をできるだけ使わない」ためにどうするかというふうに考えるのが現実的である。
しかるに、改憲論者たち(例えば今日の TV でしゃべっていた山崎拓と扇千景)は九条の第二項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」を廃して、「日本は陸海空軍を有し、自衛のため、国連安保理事会の議決に従って、武力を行使することができる」というふうに変えたいという。
この改訂の意図はどう考えても「戦争をしたい」という他に解釈のしようがない。
というのは、九条をそのように改訂するということは「戦争をしてもよい条件」を実定的に定める、ということである。どれほど合理的で厳密な規定であろうとも、「戦争をするためにクリアーすべき条件」を定めた法律は「戦争をしないための法律」ではなく、「戦争をするための法律」である。
例えば刑法 199 条は「殺人罪」を「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス」と規定しているが、「人を殺してもよい条件」は規定していない。
改憲論者のロジックは、「自衛ノタメ又ハ公共ノ福祉ニ適スル場合ヲ除キ」という限定条件を刑法 199 条に書き加えろといっているのと同じである。
「どういう場合なら殺人をしても罰せられないかをあらかじめ規定しておきましょうよ。だってときには人を殺さなければならない場合だってあるでしょう。除外規定を決めておけば、すっきりした気分で人が殺せるじゃないですか。」そうこの人たちは主張しているのである。
ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。
しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには論理的なつながりはない。
殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が「同時に」存在しているということ。そのふたつの要請のあいだに「引き裂かれてあること」が人間の常態だ、ということである。
矛盾した二つの要請のあいだでふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、と彼らは言う。
それは「子ども」の主張である。
「普通の国家」か「非武装中立」かの二者択一、というのは、「子どもの論理」である。
ちゃんとした「大人」はそういうことを言わない。
もう一度繰り返すが、「人を殺さなければならない場合」がある、ということと「人を殺してもよい条件を確定すること」のあいだには、何の論理的なつながりもない。
なぜなら「人を殺してもよい条件を確定」した瞬間に、「人を殺してはならない」という禁戒は無効化されてしまうからだ。
「人を殺してもよい条件」を確定してしまったら、そのあとは、「人を殺したい」という要請と、「そのためにクリアーすべき条件」を「合理的に」整合させることだけに人間は頭を使うようになるだろう。
人間がそういう度し難い生き物である、ということを忘れてはならない。
憲法第九条の趣旨は「人間に戦争をさせない」ということである。
それに対して、九条改訂論者は「戦争は必要ならばしてもよい」ということを主張している。
その論拠は「現に戦争が行われており、自衛の必要がある」からである。
しかし、それは彼らが信じているほど「現実的な」推論なのだろうか。
彼らは九条を「空論」だという。
「もしどこかの国が侵略してきたらどうするのだ」と彼らは脅かす。
だが、よく考えると、これは、刑法が「空論」だと言っているのと同じである。
なぜなら、刑法 199 条があるにもかかわらず、毎日のように日本では殺人事件が起きているからである。
改憲論者が憲法九条は「空論」だから戦力の行使を認めろと主張するのは、刑法 199 条は「空論」だから、市民は銃器で武装すべきだというふうに主張するのと同じである。
しかし、彼らもそんな愚かな主張はしないだろう。
改憲論者だって、武装することによって新たに生じる危難の方がいま起きている危難より多い、ということを予測できるからである。
刑法 199 条が「空論」でないのと同じように、憲法九条は「空論」ではない。
私はそう考える。
なぜなら、現に日本は自衛隊という「武装」を有して、「外敵の侵略」に対する備えをすでになしており、かつ、その「武装」はどういう条件で行使されるべきかについての「社会的合意がすでに存在する」からである。
いまさら憲法九条を改訂するまでもなく、その「条件」は刑法 37 条にはっきりと規定されている。

「自己又ハ他人ノ生命、身体、自由若クハ財産ニ対スル現在ノ危難ヲ避クル為已ムコトヲ得サルニ出タル行為ハ其行為ヨリ生シタル害、其避ケントシタル害ノ程度ヲ超エサル場合ニ限リ之ヲ罰セス」

日本国民のおそらく全員が「緊急避難」についてのこの考え方を承認するだろう。
その場合、この条文において、「正当防衛・緊急避難の行為より生じたる害」が「回避しようとした害」よりを超えた場合には、それは罰せられると明記していることを忘れて欲しくない。
それは上で書いた銃器規制についてのロジックと同じである。
「銃の所持によって生じる害」が、「銃の所持によって回避される害」より大きければ、それは禁止されるべきである。
簡単な算術だ。

それと同じ算術によって、私は(おおかたの日本国民と同じく)「戦力の行使によって回避される害」が「戦力の行使によって生じる害」より大きければ、戦力は行使すべきであり、「戦力の行使によって生じる害」が「戦力の行使によって回避される害」より大きな場合、戦力は行使すべきではないと考えている。

自衛に関する議論は、これで尽きると思う。国連の決議とか安保条約とかいうようなことは、すべてこの原則「から」派生するものであって、それに先立つものではない。
自衛隊は「緊急避難」のための「戦力」である。この原則は現在おおかたの国民によって不文律として承認されており、それで十分であると私は考える。
自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。
これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句をいう人は刑法の本義だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。
「武は不祥の器也」。これは老子の言葉である。
武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存するのである。
「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせば「武力」ではない。ただの「暴力」である。
私は改憲論者より老子の方が知性において勝っていると考えている。それゆえ、その教えに従って、「正統性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保するだろう、と考えるのである。
自衛隊は「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条の「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。
自衛隊は憲法制定とほぼ同時に、憲法とおなじくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は「兄弟」なのである。それは、この二つの制度が同じ一つの政治単位(端的に言えばマッカーサー元帥の頭脳)から生まれたということを考えれば当たり前すぎることである。
憲法九条と自衛隊が「矛盾した存在である」のは、「矛盾していること」こそがそのそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。
平和憲法と軍隊を「同時に」日本に与えることによって、日本に国際政治的な固有の機能を果たさせることをアメリカは求めた。
憲法の制定が1946年、警察予備隊の発足が1950年。憲法に4年の時間的アドバンテージがあるために現在の論争の構造が定着しているが、もしこの順番が逆だったら、かえって憲法九条の意味ははっきりしたはずである。
憲法九条を無効化するために自衛隊が作られたというよりは、自衛隊を規制するために憲法九条が効果的に機能しているという構図が見えるはずである。
憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、いわば相補的に支え合っている。
「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」は、アメリカのイニシアティヴのもとに日本社会が狡知をこらして作り上げた「歴史上もっとも巧妙な政治的妥協」の一つである。
憲法九条のリアリティは自衛隊に支えられており、自衛隊の正統性は憲法九条という「保証人」によって担保されている。憲法九条と自衛隊が「リアル」に拮抗している限り、日本は世界でも例外的に「安全な」国でいられると私は信じている。
おそらく、おおかたの日本国民は私と同じような考え方をしていると私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在を受け容れてきたのである。