北朝鮮の金正日総書記の長男「金正男らしき人物」が偽造パスポートで日本に入国しようとして拘束され、中国に退去させられるという事件があった。
新聞報道はおもにこの不可解な事件の対応に苦慮する日本政府サイドの動きに焦点をあてていたが、みながあえて口にしないこの事件の「ショック」な部分はもちろん、「北朝鮮の次期国家元首がドミニカの偽造パスポートで子連れでディズニーランドに来た」という行動の奇矯さと、29 歳という年齢が信じられないその「若さのない」風貌にある。
しかし、よく考えると、この不可思議な行動や、奇異な風貌も別に怪しむほどのことではないのかもしれない。
私は北朝鮮という国が嫌いである。
ただし、私が北朝鮮を嫌いな理由はわが国のナショナリストたちが北朝鮮を嫌うのとは理由が違う。
私が政治体制を評価する基準は一つしかない。
それは「私のような人間が基本的人権を保証されて生きていけるかどうか」だけである。
私は北朝鮮で生まれたらおそらくずいぶん前に強制収容所で死んでいるだろう。
けれども、わがナショナリストたちは違う。
彼らはどちらかといえば北朝鮮に生まれたら「主体思想」の信奉者となり、金日成の巨像の前にひれふして感涙にむせび、私のような懐疑的な人間を収容所に送り込んで「害虫を駆除した」気分になれるタイプの人々である。
もし、いま藤岡信勝が北朝鮮の「平壌大学」の教授であったとしたら、彼がどれほど猛々しく日本の「新しい歴史教科書を作る会」を罵倒したか、想像することは少しもむずかしいことではない。
いま日本で「北朝鮮て嫌い」と思っている人間には二種類ある。
一方は「もし北朝鮮に生まれていたら『金正日総書記万歳!』と呼号しただろう人たち」であり、一方は「北朝鮮に生まれていたら強制収容所に送られていただろう人たち」である。
この二種はまるで異質な人間たちであり、これを「北朝鮮を嫌う排外主義的日本人」というふうに一括りにして考えていただいては困る。
どこの国にも「わけもなく自分の国が大好きで、外国が嫌い」な人間は山のようにいる。私は「そういう人間は国籍がどこであれ、同じタイプの人間であり、私はそういう人間が嫌いだ」と言っているのである。
というわけであるから、メディアが「アジアの政治状況の安定のためには金正日のご機嫌をそこねないほうがわが国の国益にかなう」というようなしたり顔の社説を掲げるのを読んで鬱々として楽しまないのである。
そこにもってきて、今回の騒動で「次期皇帝」のご尊顔を拝するに及んで、私の憂いは深まった。
彼の行動や、顔付き、物腰から、私たちは彼に施されたはずの 30 年間にわたる「帝王学」が彼をどのような人間にしたのか、近似的に想像することができる。
率直に言って、あれは「へつらう人間たち」に囲まれて生きてきた人間の顔である。
おそらく彼の養育係のうちには彼に人間関係の信義や、適切なコミュニケーションのルールについて教えた人間はいなかったのであろう。
だが、彼の不可解な行動と、犯罪者として拘引されながら、「威風あたりを払う」(つもりでいる)様子から察して、彼がある種の「政治的センス」を磨き上げてきたことは認めなければならない。
それは「どうすれば他人を不安にすることができるか」についての経験則である。
なによりもまず「自分が何ものであるかを明らかにしないこと」と「その行動に一貫したロジックが見られないこと」である。
これはまさに独裁者の資質というにふさわしい。
私はまえにこう書いたことがある。
「独裁的な権力者は、理不尽な暴政を行うほど呪術的な威信を帯びる。殷の紂王からスターリンに至るまで、独裁者はその理不尽さゆえに畏怖され、憎まれる。もっとも独裁的な権力者とは、定義上、その没落を彼以外の全員が切望するような権力者のことである。」(『現代思想のパフォーマンス』)
独裁者の権威は、その「理不尽」さ、つまり「彼が次に何をするか分からない」ことを淵源とする。
諫言をする忠臣が処刑されるかと思うと、溺愛されていたはずの寵臣がその翌日処刑される。次は誰が殺されるのか、その判断基準が「分からない」ということが「恐怖政治」の重要な本質をなしている。
判断が論理的であるために、その行動が容易に予測できるような人間は決して独裁者になることができない。なぜなら、彼は誰にも恐怖や不安を与えないからである。
「金正男らしき人物」は拘引後の限界状況において、「帝王学」でおさめたその政治的ツールを使用してみせた。(それはおそらく彼の「宮廷」では非常に効果的に機能していたのであろう。)
今回の行動で、彼はむしろ北朝鮮金王朝の玉座を継ぐ資格が十分にあることを内外にアピールできたのかもしれない。
「何を考えているか、何をするのか分からない人間」が、東アジア政治情勢の「鍵」を握っているという「恣意性の恐怖」こそ、金正日が手持ちの政治的リソースを国際政治で最大限効果的に発揮するために見出した奇策だからである。
(2001-05-05 00:00)