極楽スキーの会&ジェンダー研究会共催の「高橋友子先生のマルコポーロ賞受賞を祝う会ならびにワルモノ先生の入籍を言祝ぐ会ならびに清水先生ご苦労様でした上野先生おつかれさんですそれにつけても新学期ですね」宴会が昨夕、西宮北口「旬彩」において挙行された。
参加者は清水、森永、高橋(友)、三杉、石川、飯田、山本、上野、それに私の9名。清水先生を除くと、全員「極楽な人たち」である(その清水先生も来シーズンからは極楽ツアー参加のご意向を示されている。)
参加者の勢力分布は、フェミニスト5名、歴史学者3名、マルクシスト2名、フィッシャーマン1名、アンチ・フェミニスト体育会系1名で、圧倒的に「フェミニスト」優位の布陣である。
しかしイデオロギー的対立もものかは、「根が極楽な人たち」が一堂に会したわけであるから、「ま、ままま、こまかいことは横へおいて」とさっそく乾杯。
お酒が一滴入るとたちまち全員上機嫌となり、勝手気ままに談論風発3時間。
お店の他の客が全員逃げ出すほどの高歌放吟ぶりでついに店側から泣きが入り、「次回来たら串揚げ12本無料サービスしますから」と撤収を促された。
翌日ジェンダー研の大宴会が予定されているから二日続きの飲み会は困るんだよね、という理由で22日開催に難色を示していたはずのジェンダー研系教員たちは元気良くさらに二次会へ繰り出すべく西北の闇の中に消えていった。
帰り道の阪急の中で生酔いのまま橋本治『宗教なんかこわくない』を読む。『蓮と刀』同様、何度読んでも「メカラウロコ」本である。
昨日読んだなかでいちばん「メウロコ」な箇所は次のところ。
「『どうしてファシズム化して行こうとするあの時代に、国民は国家神道の蔓延を押さえられなかったのか?』ということの問の答は、当然のことながら、『だって、宗教なんかよく分からなかったんだもん』にしかならない。『分かんないものに攻めて来られたって、防ぎようなんてないじゃない』は『日常の中に "武器" というものが存在しないということは、"武器を持って戦う" ということがリアルなものとして迫ってこない』と同じことなのである。」
そ、そうだったのか。「分かんないものに攻めて来られたって、防ぎようがない」んだ。
「なんだかよく分かんないもの」がそのへんにあって、それがうろうろしているときに「なんだかよく分かんないものがうろうろしてるけど、なんだか分かんないから、ほっとこう」というのが「知性なき人々」の致命傷なのである。
橋本治というのは徹底的に知的な人であるから、この「なんだかよく分かんないもの」が目先をちらちらしていることに耐えることができない。
「なんだかよく分かんないもの」(いまの文脈では「宗教」)は「ほんとのところ何なのか」ということを橋本は問う。
「なんだかよく分かんないもの」を、リアルな触感をともなって「日常の中に存在させる」こと、それが橋本治の基本戦略である。
あるものが「なんだかよく分かんないけど、別にいいや」で済ませられるのは、それが「見慣れないもの」だからではない。「あまりに」日常化しているがゆえに、対象として主題化されないものを私たちは「なんだかよく分かんない」ものとみなして平気でほおっておけるのである。
オウム真理教の分析を試みた橋本のこの本の洞見は、「オウム真理教」は「みなさんが毎日通っているあの『会社』とまったく同じものだ」という断定のうちにある。
「会社に通う」ということが無意識的な宗教的行為であることに「気づかない」でいるから、宗教が「分からない」のだ。
「資本とは何か」「市場とは何か」「貨幣とは何か」「欲望とは何か」「交換とは何か」「共同体とは何か」・・・といった、おのれ自身の「日常」の基底をなしているはずのものについてのラディカルな問いかけをネグレクトしているサラリーマンには当然にも「宗教は分からない」。逆に言えば、そのような「おのれ自身の基底をなしているものへのラディカルな問いかけ」を怠らないものは、なんであれ「なんだかわかんないもの」の跳梁跋扈に平気でいられることはできない。
「よく分からなくても平気でいられる変なもの」とは、「自分の日常生活のなかにどかんとあるのに、それについて考え出すと面倒だから見ない振りをしている変なもの」のことなのである。
知とは、その「変なもの」を自分に分かる言葉で語りきろうとする意志のことである。
橋本治の書くものはときどき「よく分からない」。
よく分からないけど「平気」ではいられない種類の「わからなさ」がそこにある。
だから、さらに橋本治の本を読む。
こりこり。
(2001-04-23 00:00)