4月25日

2001-04-25 mercredi

ゼミの三回生たちをお招きしての「顔見せ」大宴会。
12名がわが家に集まる。
私はいつもの「颱風カレー」と「ベトナム風ビーフン」を供するが、ニョクマムがなくてオイスターソースで味付けしたので「ベトナム風」ではなく「広東風」になってしまった。「颱風カレー」は辛いもの好きの一部には好評だったが、泣いたり、鼻水を啜りながら我慢して食べている学生もいた。すまない。
みんなまだ三回しか教室で顔を合わせていないのであるが、たちまち仲良くなって、わいわい大騒ぎが始まる。

若い女の子たちの「いきなり仲良くなっちゃう」能力の高さにはいつも驚かされる。
「若い男の子」たちも仲良くなるのは速いけれど、女性には勝てない。
これはおそらく彼女たちが一種の「身体言語」でコミュニケートするからではないか、と思う。
「身体言語」といっても、「ボディ・ランゲージ」(みぶりとか目配せとか)という準-記号的なものではなく、もうすこし音楽的な、「語りのリズム」とか「笑い声のハーモニー」のような、「身体が共振する」感覚をつかまえるのがすごく巧妙だ、ということである。
私たち男の場合でも、たしかにはじめて会う人同士のあいだでは、それぞれが「なにを考えているか、なにを感じているか」という「話の内容」よりも、むしろ「語り口」のリズムやトーンで「ノリが合う」かどうかということがまず意識される。
しかし、どうも女の子同士はそれとも違うようだ。
彼女たちは「話の内容」にはほとんど重要性を置かない。
それどころか「語り口」の「ノリが合う」か「合わないか」にさえ、それほどの重要性を認めていない。
彼女たちの関心事は、なによりも、「すでに始まった会話を何が何でも継続する」という共通目的に全員一丸となって協力しあうことにある。
一人一人が瞬時のうちに「自分のパート」を探り当て、そこで期待される「音」を期待通りに「発する」ことにきわだった技巧と勘の良さを示す。
すでにバンドは演奏を始めているが、譜面も指揮者も存在しない。
誰かが「テーマ」を提出すると、誰かがそれを受けて「ヴァリエーション」を返す。同じようなフレーズが続いて手詰まりになると、誰かがまったく違う曲想で展開を試みる。
みごとなものである。
コミュニケーションの本義は有意なメッセージの往還にではなく、コミュニケーションをなしうる人々がそこにいるということを明らかにすることに存するというのは、レヴィナスとレヴィ=ストロースの洞見であるが、彼女たちのコミュニケーション・パフォーマンスはそれをみごとに裏書きしていた。
どうして「戦争」を始めるのがいつも男で、「女の子たち」は決して「戦争」を始めないのか、その理由が分かった気がした。

上野千鶴子さんから「献本のお礼状」が届く。
私はもちろん「虎の尾を踏む」ような恐ろしいことを思いつくはずもないので、献本したのは冬弓舎の内浦さんの「しわざ」に違いない。
上野千鶴子さんが書評で取り上げてめちゃめちゃにけなした場合、「ウエノチヅコがこれほど罵倒する本ならぜひ読んでみたい」という「まずいもの食いたさ」読者が獲得できるのでは・・・と内浦さんが悪魔のような狡知を発揮したのであろう。(内浦さんてけっこう「アキンド」)
メールボックスに「東京大学文学部社会学研究室・上野千鶴子」差出人のはがきを発見したときは「げげっ」と心臓が止まりそうになったが、文面はとっても「フレンドリー」(?)

「こんなありあまる洒脱な才能とバランスのよい大人の知恵とを、たかがフェミニズム批判ごときに使うとは、なんともったいないという感想を持ちました。(笑)」

あれほど悪口雑言を書きつらねたのに、この「受け流し」。
うーむ、やはり上野千鶴子はあなどれないなあ。
しかし、いつ背中から「ばっさり」くるか分からないから、しばらく夜道には気をつけよう。
内浦さん、あまり怖いことしないでくださいよお。