4月19日

2001-04-19 jeudi

「均質的であることが嫌いで、多様性が好きだ」とほんの数日前に書いたあとにすぐに前言を撤回するのは定見がなくて恥ずかしいが、よく考えてみたら、私はそれほど「均質的であること」が嫌いではないことに気がついた。
それは今日の朝日新聞の夕刊に青木保さんが「文化の多様性の危機」について書いているのを読んで、「なんか、ちがうな」と思ったからである。
青木さんの書くものはいつも平明かつ独創的で私は好きなのだが、この記事はなんだか消化が悪い。
ここで青木さんは「グローバリゼーションのかけ声の下に急速に世界を席巻しつつある『ファストフード化』の波」を批判している。
こんなふうに。

「これは単に食品のことだけでなく、文化の簡易化・単純化と画一化のことを指す。
グローバル文化なるいい方で世界にひろがってきた文化現象は、コカ・コーラ化、ディズニー現象、マクドナルド化などと称されながら、Tシャツ、ジーンズ、スニーカーに多機能携帯電話にTVゲームとアニメといったポピュラー文化複合としてアメリカを発信源としている。(…) 世界中どこでも『同じ』にしてしまうグローバル化の激風は、人間の生活文化をマニュアル化し人間存在そのものさえ機械化する。」

これはごく「常識的」な知見であり、中学生くらいでも書きそうなことで、それだけ読めば「あ、そうですか、はいはい、なるほどね」で済みそうだが(TVゲームとアニメの「発信源」がアメリカだというのは違うと思うけど)私がひっかかるのは、この文章に「マクドナルド理論」なるものを批判する言葉が含まれていたからである。
「マクドナルド理論」(なんてものがあることを寡聞な私はもちろん知らなかったが)とは、青木さんの解説によると

「『ニューヨークタイムズ』のトマス・フリードマンのように『マクドナルド理論』なるものを立て、『マクドナルド店のある任意の二国は戦争をしない』と主張するものも現れた。マクドナルドのハンバーガーを食べることが平和のシンボルであり、人権・民主化のバロメーターである、とさえいいたいようである。」

これに私は「かちん」ときた。
私はもちろんトマス・フリードマンなんていうひとのことは知らないし、どういう文脈で出てきた言葉か知らないけれど「マクドナルド店のある任意の二国は戦争をしない」というアイディアには「おおおおお」と胸を衝かれた。
私もなんとなくそんな気がするからである。
およそどのような「おまじない」であれ、「げんかつぎ」であれ、「戦争をしない」ことに役立つ可能性のあるすべてのものに対して私は好意的である。
仮にマクドナルドのライセンス契約のせいで、「あそこと国交断絶すると、チキンナゲットの揚げ粉が輸入できなくなる」とか「フライドポテトの温度計のメンテが来なくなる」とかいう「しばり」があって、マクドを常食したいと切望する国民の圧力に屈して、「マクド関連諸国」とは友好関係を維持せざるを得ないというような国際関係文脈がわずか一筋でもありうるなら、「マクドナルド」の世界平和への貢献はグロティウス、カントのそれに劣るまいと思う。
ま、それほどのことはないにせよ、人間というのは「同じものを食べている」人間に対して、少なからず好意的になる傾向がある。
「同じものを食べる」というのは、単に栄養学的に同種の養分を摂取するから、身体的組成が似てくるというだけでなく、「食べるマナー」全般、すなわち「食べるときの服装」、「食べるときの身体運用」、「食べるときの表情」、「食事中の話題」、「ともに食事をする相手との人間関係のあり方」などなど、無数の領域において「同一化」の影響を及ぼすからである。
だからこそ、人間たちは、「仲間」になるときに「会食」というものをするのである。
それは「同じ言語」でしゃべったり、「同じ音楽」で歌ったり踊ったり、「同じ服装」をしたりするのと類似の効果を持つ。
「会食」が孤立した人間同士の間にある種の「間主観的領域」を形成し、それが「共同体」を基礎づけるひとつの重要なファクターである、というのは人類学上の「常識」である。
文化人類学者である青木さんがそのことを知らないはずはない。
世界の「マクドナルド化」は、別の言い方をすれば、「世界の人々の会食」機会の爆発的増大を意味する。
そこに身体を媒介とした「間主観的領域」が形成されるのは当然である。
だとすれば、それが「二国間の戦争」をドライブする培地となる身体的な違和感をいささかでも減殺するのは論理的には自明のことである。
その心理的メカニズムは、例えば「納豆と、豆腐とワカメの味噌汁と、白いご飯に海苔なんかあると、朝御飯最高ですね」というようなフランス人に私がかぎりない親近感を覚え,「エラース! 腐った豆の汁と腐った豆そのものを日本人は毎朝食べるのですか。気持ち悪いですね。げろはきそうですね」の言うフランス人に殺意を感じるのとどこも変わらない。
だとすれば、食文化の「均質性」が確保されることは近代的な国民国家=民族文化の排他性を中和するためには「けっこういいこと」のように私には思える。
もちろん、私とて「じゃあ、世界中の人間は三食マクドだ」というような過激なことを言っているわけではない。(私自身、昨日の晩に「ビッグマックとてりやきバーガーとチキンナゲットとフライドポテト」を食べて胸焼けがしたので、もう当分マクドの顔はみたくない。)
食文化の均質化によって食文化の多様性は傷つけられる、それはたしかだ。
しかし、「食文化の多様性」がもたらす「プラス価値」と「食文化の均質化」がもたらす「プラス価値」を比較計量する、という発想はあってもよい、と私は思う。
「マクドナルド理論」を唱えたフリードマンさんが「マクドナルドのハンバーガーを食べることが平和のシンボルであり、人権・民主化のバロメーターである」とほんとうに言っているのかどうか私は知らない。(言っているとすればバカである。)
しかし、「同じ食物」を共有することは世界の平和にちょっとだけ貢献するかもしれない、という論旨であれば、私にはそれを否定するいかなる理由もない。
青木さんは、いったいどうしてそれが「いけない」と思うのだろう。
マクドナルドのてりやきバーガーを常食したくらいのことで「人間の生活文化」が「マニュアル化・機械化」されると本当に思っているのだろうか。
それが本当であれば、1971年のマクドナルド代々木店開店以来の熱狂的マクド喰いである私はいったいどうなるのであろう。
すでに30年である。
私の身体細胞のかなりの部分はマクドナルドから摂取された栄養素で構築されている。そのせいで、私の思考と感受性はすでにきわだった仕方で「マニュアル化・機械化」されてしまっているのだろうか。
もちろん、その可能性は否定できない。
「マクドナルドを食べたら戦争が回避できるかも」というようなアイディアに共感してしまうことはすでにしてそうとうに「マニュアル化・機械化」が進行した果ての痴呆状態なのかも知れない。
しかし、そういう発想法って、「文化の多様性」を護持せよ、というような「誰も反対しない大義名分」に比べると、どちらかというと「奇矯」だと思う。
「奇矯」というのは、「少数派」のことである。
「少数派」というのは、その知見が「グローバル化していない」ひとたちのことである。
「食文化の均質化のせいでマニュアル化した精神が誰も相手にしない変痴奇論を口走るようになる」という命題は前段と後段が矛盾している。
問題の立て方のどこかに無理があるのだ。
「食文化を均質化すると、人々の思考や感受性にある程度の均質化の影響が出る」けれど、「何から何まで同じになるわけでもない」。私はそう考える。
だから、「均質化によるプラス」の最大値と「均質化によるマイナス」の最小値を計量して、「ま、このへんだわな」というあたりで手を打つというのが心ある大人の態度であろうかと思うのである。
それに、世界各国のマクドナルド食べ歩きを趣味としているウチダに言わせると、それぞれの国で、マクドナルドの味は微妙に違う。
私が食べたいちばん美味しいマックバーガーはバルセロナのそれであった。
パン粉といい牛肉といい焼き方の温度といい、西宮北口の駅構内のバーガーの100倍くらい美味しかった。これをして「食文化の多様性」といったらいいすぎだろうか?(「いいすぎ」だけど)

というところまで書いていたら電話が鳴って「ピーヒョロ」とファックスが届いた。
冬弓舎の内浦さんからで、「信濃毎日新聞」に出た『ためらいの倫理学』の書評のコピーだった。
なんと書評者は加藤典洋さんである。
『ため倫』(@葉柳和則)は加藤さんと高橋哲哉さんの「歴史主体論争」についてのコメントにずいぶん頁数を割いているので、論評された当のご本人がそれをどう思ったかというのは、書いた本人としてはすごく興味がある。
その部分だけを引用すると

「いっておかなければ不当だろうからいうが、わたしの『敗戦後論』にふれた文もある。これほど深く読み込んだ論考に、わたしははじめて出会った。」

こ、これは。なんということであろうか。
書いた本人もびっくり。
そ、そうだったんですか。
そのほか過分なお言葉を頂いてしまったが、恥ずかしいので引用しない。
しかし、本というのは出してみるものである。
ほんとに。