4月18日

2001-04-18 mercredi

新学期早々に配られた女性学インスティチュートのニューズレターに頼藤先生が短いエッセイを書いていた。
「われらの内なるセクシズム」と題されたその文章の中で、頼藤先生はフェミニストにすりよる男たちを「曲学阿世」というずいぶんと大時代的な形容詞で罵倒していた。
うちの大学の男性教員で「アンチ・フェミニズム」を公言しているのは私だけだと思っていたら、頼藤先生も同志だったわけである。すっかりうれしくなって、今度会ったら「頼藤先生も命知らずですねえ」と連帯の挨拶を送ろうと思っていたら、突然の訃報に接した。
このエッセイが先生の「絶筆」かも知れない。
ご冥福を祈りつつ、再録させていただくことにする。

「公の場で書いたり喋ったりする時、ラディカルないしリベラルで、人権至上主義的で、事実上の性差さえ認めたがらない平等主義者の論客というのがいる。それが女性の場合は、まあよくあるフェミニストなんであって、彼女の立場として納得できてしまう。組合員が賃上げを要求したり、電力会社が原発は安全だと主張したりするのと似たようなものだからである。問題は、男性が同様の論旨を言い募り書き散らす場合で、これに二通りある。
ひとつは比較的若い男性に多く、私生活はおろか夢の中まで、およそ性別役割分業感覚がない。仕事・家事・育児・趣味その他、すべて男女平等というより男女等質である。どちらかというと本人自身も、第一次性徴と性染色体以外は男性らしさが顕著でない。これだと首尾一貫しているし裏表がないので、いっそ好感がもてる。いまひとつが曲者で、やや年配に多く、私的なテリトリーに帰ると君子豹変して、『めし、ふろ、灰皿』とか『だれに食わせてもらってるんだ』とかが出る。これは許せん。
誤解しないでいただきたいのだが、このオッサンの正体が男尊女卑のショービニストだから許せないのではない。それならそれで公の場でも呉智英みたいに『わしは封建主義者や』と表明すればいいのである。それをなんぞや、巧言令色、世に阿って学を曲げる。曲げるなら曲げるで、私生活でも女房の下着を洗濯し、隣家の主婦と談笑しながら、それを干すべきである。
さて、わたしはというと、明治生まれと大正生まれに育てられたせいか、古典的なセクシズムが染み込んでしまっている。家内も元帝国陸軍軍曹の娘で、けっきょく専業主婦をつづけている。ずいぶん古めかしい夫婦ということになる。だから口先だけでフェミニズムもどきの言説を吐くのを潔くしない。そして内心ひそかに『男尊女卑思想は、おとこをおだてて木に登らせる女性陣の陰謀イデオロギーではなかったか』と疑っている。家内に問いただしたことがないのは、『ばれたか』と言われたらショックだからである。」

頼藤先生の諧謔にはきびしい批評性がにじんでいる。
それは敗戦の直後に、それまでの軍国主義の旗振りから一夜にして宗旨替えして、「民主主義」の旗振りになった「世渡り上手」な知識人たちに太宰治や大岡昇平や小林秀雄が向けた批評の視線に似ている。
ことの深刻さはずいぶん違うけれど、「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートスは変わらない。
功利的な動機からフェミニズムによりそい、「セクシスト」退治のキャンペーンにぞとぞろつきしたがっている人々は、スターリン主義の時代に隣人を密告し、文化大革命のときに隣人に「三角帽子」をかぶせて唾をはきかけ、軍国主義の時代に隣人を「非国民」と罵った人々とエートスにおいて同類である。
私や頼藤先生が嫌悪しているのは、フェミニズムではない。「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々である。
その心根の卑しさは彼らがフェミニズムが衰退する日にどれほど素晴らしい逃げ足でフェミニズムを棄てるか、どれほど憎々しげにフェミニズムを罵倒するか、それを見ればあきらかになるだろう。(その日はじきに来る。)
そして、私はそのときにこそ「フェミニズム断固支持」の旗をかざすことになるだろう。
頼藤先生が生きておられたら、そのときにはきっと先生も「フェミニズム? いいじゃないですか。すばらしい思想ですよ」と潔く言い放ったに違いない。なぜなら、そのエッセイの最後のパラグラフで頼藤先生は「古めかしい夫婦」のあいだにも不可視の権力関係が潜在すること、そして配偶者のなかにわだかまる他者性について、「男」は「問うことができない」ということを正しく言い当てているからだ。そして、この二つこそフェミニズムがもたらした真に価値ある知見だからである。



4月12日の日記のはなしのつづき(長いから興味がないひとはとばしてね)

先日小谷真理vs山形浩生の裁判について短いコメントをしたら、やはり各方面から「ちょっと」というご注意のメールが届いた。
まず最初は情報源の鈴木先生から、この裁判は単なるペンネーム云々の問題ではなく、性差別の問題にかかわるものですから、そのところをきちんとしていただかないと、というご注意を頂いた。
そしたら、次は被告の山形浩生さんご本人から、裁判の経緯についてちゃんと調べてから書いていただかないと、というご注意を頂いた。(これはびっくり。まったくどこで誰が読んでいるか分からない。うかつなことはできません。)
当事者からまでご注意頂くということになると、あまり適当なことを言い散らして逃げ出すわけにもゆかなくなった。
これは少し腰を据えて考えてみよう。
さっそく鈴木先生と山形さんにご教示頂いたあちこちのウェブサイトを渡り歩いて、この裁判についての記事を読む。
まずことの経緯を説明しておこう。(以下、登場するみなさんの敬称は略させていただきます。ご了承下さい。)
1997年11月、メディア・ワークス社は「オルタナカルチャー」についてのレフェランスブックを編集したが、その中で小谷真理の書いたエヴァンゲリオン論を山形が厳しく批判したのである。まあ批判というよりはほとんど「罵倒」である。ことの発端になったテクストだから、それをまず読んでみよう。

「そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、
ペンネームを使うなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい
(名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
似非アカデミズムというのを説明すると、たとえばフェミニズムはそれなりにパワーを持っていた。それは社会を変えるという意味でのパワーね。だからこれは本物。でも、フェミニズム「批評」なんかに何の力もないのだ。だからこれは似非なの。具体的にいえばだね、もしエバゲ(『エヴァンゲリオン』)を云々したいなら (でも、何が悲しくて?)、そこに西洋文明が隠蔽した二項対立構造が存在していることを指摘したってしょうがないのよ。だってそれは、もし存在するならあらゆるところに存在するはずのものなんですもの。それがエバゲにあってどうだっての? 社会はそんなことをしてほしくてあんたらを飼っているわけじゃないんだ。
そもそも「二項対立」云々なんて議論の価値は、それが現実の人間のありようを整理できるとか、説明できるとかいう部分にしかない。そのための知的枠組みなのだもの。
検討するなら、「この理論はここまで現実に適用できます」「こういう条件では適用できません」というのを、定量的にとは言わないまでも、何らかの形で示さないと。さもないと他人のふんどしで相撲の真似ごとをするだけの痴話饒舌にすぎない。
エバゲを論じたっていいんだ。二項対立でも別にいいや。
でも、くだんないのがそのやり方なのよ。二項対立がエバゲにあることを指摘したってダメなの。それがエバゲを通じて、現実にどのようなインパクトを与えているか示さないと。またもや具体的に言えばだね、価値があるとすれば、その「二項対立」とやらをどう料理することによって大衆的な人気が生じているのか、という部分の分析なわけ。それをどうすれば移植できるのか、というのを分析しなきゃ。
これは現実的に価値と力を持つ分析になる。経済的にも社会的にも。」(以下略)

ずいぶんと痛烈な罵倒である。
私は小谷のエヴァンゲリオン論を読んでいないから、この批評の当否については論じられないけれど、この口調でどやしつけられては、ふつう誰でも怒るだろう。(私なら歯ぎしりして、ただちに呪殺を試みるであろう。)
しかし、この文を読む限りでは、「そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で」という冒頭の振りは「意地の悪いジョーク」以上のものではないように思う。
「そもそも」と「周知」というのは、「読者を限定するためのツール」である。
それについては前に日記に書いたからもう繰り返さないけれど、テクストは必ずその冒頭に「そのテクストが誰に宛てたものか」を明記する。この「ジョーク」は「小谷真理の書くものに対しての山形の批判を共有するであろう一部の読者」を選別するために機能している。
だから、「何言ってんだ、この人?」と思った読者(例えば私)は、「ああ、このテクストの宛先は私ではない」ということがすぐに分かる。(だから、たぶんその後の文章も読まない。)
もちろん小谷真理の名も巽孝之の名も知らない読者が読んだら「へー、そうなのか」と思う可能性はあるけれど、そのような知的準備を欠いた上で「オルタナティヴ・カルチャー」などという本に手を出すほど身の程知らずな読者はあまりいないと思う。(いるのかも知れないけれど、いたとしたら相当に情報感知力とファイリング能力に欠けた人だから、きっと一分後には二人の名前を失念しているだろう。)
この「ジョーク」を除くと、あとの批判は「口調がひどくきつい」というだけで、別に際立って反社会的な言辞だとは思えない。
それに対して、小谷を含む人々は次のようなロジックでその行為の犯罪性を批判した。原告側の「マニフェスト」は英語で書いてあるので、肝心なところだけ翻訳してみる。
マニフェストの主体は Association for Defending Female Authorship(女性著作権擁護協会)という組織である。

「『小谷真理』とはその夫の仮面であると誤記し、女性である書き手が男性であるかのように故意に誤伝することによって、被告はその女性差別を露呈し、原告からその固有名と同時に発言の権利をも奪い去ったのである。この訴訟はまさしく女性差別の文化的な歴史をみごとに際立たせている。その歴史の中で、超反動的な家父長制は多くの女性アーティストとその芸術作品を執拗に抑圧し、侮辱し、過小評価してきたからである。ファロス中心主義的ヘゲモニーはこの種の差別を実に巧妙に自然化しているので、被告を含む一部の人々は彼らの個人的な偏見がセクシスト的言説の完全にステレオタイプであることを認識できなくなっているのである。
1980年代から90年代にかけて、アメリカのフェミニスト批評はこのようなセクシュアル/テクスチュアル・ハラスメントにかかわる理論を練り上げてきた。例えば、高名なフェミニスト批評家であるジョアンナ・ロスの『女性のエクリチュールはいかにして抑圧されているか?』の第三章はつぎのように始まる。『女が何かを書いたらどうすればいいのか? 最初の防衛線は彼女がそれを書いたことを否定することだ。女には書けないはずだから、それを書いたのは他の人間(男性)に決まっている。』
ロスの本は小谷真理の90年代の経験を先取りしているばかりか、男性性の文化的政治にどっぷり浸かっているセクシュアル/テクスチュアル・ハラスメントの歴史を活写している。」

山形の書いたものについての直接的な言及は最初の一行だけである。あとは、テクストの「内容」ではなく、そのようなテクストを(おそらくは無意識に)書いている山形(をふくむ some people)の「超保守的な家父長制」的思考と「セクシスト的言説」と「ほとんど不可視の家父長的偏見」に照準している。
この「マニフェスト」はフェミニズムの「プロパガンダ」としては標準的なものであるけれど、民事事件の裁判の基礎資料としてはきわめて奇異なものであるように私には思われた。
その理由を述べる。

第一は、ここでは二つの別の問題がひとまとめに扱われているからである。
「小谷真理は巽孝之のペンネーム」という「誤記」の訂正を求めるというのは「事実関係」の問題である。
「誤記」というかたちで「定型的な罵倒」を山形を書かしめた(と小谷たちが考えている)「家父長制」というイデオロギーとの戦いは「思想」の問題である。
このふたつは水準の違う問題であり、同日に論じることができない。
名誉毀損というのは基本的に「事実関係」に即して議されるものであろう、と私は解釈している。(どれほどひどい罵倒であろうとも、それが「事実」に即しているのであれば、「名誉毀損」は成立しない。)
だから、小谷が「小谷真理は巽孝之のペンネームではない」という事実について「誤記」をした山形に「訂正して謝れ」と訴えるのは民事裁判になじむ論件だろうと思う。
けれども、山形をしてそのように書かしめた「無意識的な構造」についての批判は法廷で論じることはできないだろう。
それはすぐれてイデオロギー的な論件だからである。どれほど悪辣なイデオロギーであろうとも、「イデオロギーそのもの」を法廷に引き出すことはできない。法廷で審理されるのは、「違法行為」だけである。
かりにナチズムの熱狂的な支持者がいたとして、彼が「ユダヤ人の大量虐殺」を「心から切望していた」というだけでは罪に問うことができないのと同様である。
セクシズムはひとつのイデオロギーである。それがどの程度「犯罪的」であるにせよ、「セクシストであること」それ自体は犯罪を構成しない。
私はそのように法律というものを理解している。
もし法律が「ひとの心の中」まで裁けるということになったら、「心の中」を判定し制裁する国家権力装置が存在することになったら、私たちの世界はたいへん住み難くなるだろうと私は思う。
これが第一点。
これについては被告側の方ははっきりと事実関係だけに争点を限定しているように見える。というのは、この訴えに対して被告側はすぐにあっさりと「謝罪」しているからである。
謝罪文は次のようなものである。

「小谷真理氏と巽孝之氏が私生活においては夫婦であるが、全くの別人物であるにもかかわらず、小谷真理氏の文章からは、あたかも両者が同一人格であるかのような、巽氏との類似性が感じられる、という認識(この認識は、ひとり山形だけのものではなく、ある程度広まった認識であるとも考えています)を誇張するため、執筆者・山形浩生があえて文章上のレトリックとして書いたものです。
もちろん、山形浩生及び『オルタカルチャー日本版』編集部は、「小谷氏と巽氏が別人である」ことを承知しており、このことが広く『オルタカルチャー日本版』の読者諸氏にとっても周知のことであるという前提の基に、指摘を受けた箇所は当然レトリックあるいは諧謔的な表現として読者に理解されるであろうと考えておりました。
しかしながら、指摘された文章を読んだ読者が「小谷氏と巽氏が同一人物である」と誤解する恐れがあるという小谷氏の指摘に対し、確かに、その可能性は否定できません。すべての読者があの文章をレトリックと取るとは限らない、というところまで配慮が至らなかったのは私たちの不注意でありました。
小谷氏より指摘を受けた時点で、当 WEB に掲載していた「小谷真理、およびそれを泡沫とするニューアカ残党似非アカデミズム」の項の全文及び「SF」の項の一部を削除し、また『オルタカルチャー日本版』の出荷を停止するなど(現在、指摘を受けた問題箇所を差し替えた改訂版を出荷しています)順次可能な限りの対応策を取りながら、小谷氏と和解すべく交渉を続けてきました。
しかし、今般、新聞等で報じられたように、和解条件で合意にいたらず、小谷氏は損害賠償等を求める提訴を行われ、現在係争中です。
私たちは、今後も和解を求めて交渉を続けたいと考えていますが、まずは当 WEB 上において、ご迷惑をおかけした小谷真理氏をはじめとする関係者並びに読者諸氏に対し、お詫び申しあげると共に、これまでの顛末を報告する次第であります。」

この謝罪がどれほど「衷心からのもの」かどうかはよく分からないけれど、とにかく「事実と異なること」を書いてしまったことについては謝罪して、本も回収していた以上、これ以上問責することは法律には不可能であるように私には思われる。
そのような「迷惑な行為」を「氷山の一角」とする巨大なイデオロギーの鉱脈を摘抉しようと望むのであれば、それは「言論の仕事」であって、「法律の仕事」ではない。
あるいは原告側は、「法廷闘争」という世間の耳目を集める場を設定することで、「言論」の水準で展開されたのでは看過されてしまうおそれのある重要な論戦にむけて、社会的関心を高めることを狙ったのかも知れない。しかし、私は法律の「功利的利用」という発想はあまりよいことだと思わない。

私が「マニフェスト」を受け容れられない第二の理由は、これが私には熟知された「構文」で書かれているからである。
このマニフェストの中の「女性」を「プロレタリア」に、「家父長制」を「ブルジョワジー」と書き換えれば、これはスターリンや毛沢東の文化官僚たちが1950年-60代に書き散らしていたマルクス主義文化論とまったく同一の構文である。
「女性」を「植民地の被抑圧者」に、「家父長制」を「植民地主義」に書き換えれば、60-70年代の第三世界論と同一の構文である。
そのような文化論・歴史観がどれほど多くの暴力の培地になったのかということとはとりあえず措くとして、「実に巧妙な仕方で差別を隠蔽しているファロス中心主義的ヘゲモニー」を告発している当の文章が、「無垢なるものたちと邪悪なるものたち」の二元論(それを私は「差別」discrimination という語の本来の意味だと思う)というほとんど「古代的」な政治文法に領されていることに「気づいていない」ことに驚くのである。
他者の思考の「イデオロギー性」や「定型性」をあばくことは決してむずかしいことではない。困難なのは、おのれの思考のプロセスを領している、おのれの「条理」にまぎれこんでいる欲望とドクサを検出することである。
その基準に照らしたとき、この「マニフェスト」の執筆者たちは、「イデオロギーを検出するときのみぶりのイデオロギー性」「定型的思考を批判するときの語法の定型性」というものの危険性にあまりに無自覚でありすぎるように私には思える。
それでは「堂々巡り」にしかならない、ということにどうして気がつかないのだろう。
そこから脱出することがどれほどむずかしいか私にはよく分かる。(私だって、同じことばかり何百回も書いている「自分の思考の定型性」にはうんざりしているから)
だから、「できない」ことを難じているのではない。
「できない」のは仕方がない。ものすごくむずかしいことなんだから。
でも、「しようとしない」のは問題だと思う。
長くなったので結論をつける。
個人的には山形の書くものに共感を覚え、「マニフェスト」には鳥肌が立った。
もちろんそういう私を「セクシスト」に分類して、山形と「ひとからげ」に批判するひともいるだろうが、しかたがない。私は「セクシスト」ではないけれど、そう呼びたければどうぞ。