4月16日

2001-04-16 lundi

ひさしぶりの「まるオフ」日曜日。
ゆっくり朝寝をして、メールチェック。共同通信用のエッセイを一つ書く。(700字書くのって、ほとんどコーヒー一杯飲むあいだの仕事である。こういう仕事が毎日あったら、左うちわで暮らせるのであるが)
朝日新聞の学芸部から電話。読書欄の「著者に会いたい」の取材をしたいというオッファーがある。
おお、ついに『ためらいの倫理学』が朝日の読書欄に登場だ。
全国紙の書評にでると、売れ行きがぐんと違いますと冬弓舎の内浦さんが前から言っていたので、これはありがたい。
しかし「書評」ではなく「著者インタビュー」というのは、どういうことであろう。
「この本を読みたい」ではなく「この著者に会いたい」というのは、「こういう本を書くのはどのような怪しい人物であろうか」という猟奇的関心が書物のメッセージよりも優先的に配慮されているということを意味しているのであろうか。
しかし、ここで断言しておかなければならないが、私はけっして「怪しいもの」ではありません。
私は「フツーの人」である。
私がいささか標準から逸脱している点があるとすれば、それは私が「過度にふつうの人」だということである。
読者の方から送られてくるメールには、『ためらいの倫理学』はごく「まっとうな」ことを書いた本だ、という感想が多い。

「内田氏の考え方に、多く得心いたします。カミュやレヴィナスも含め、私にとっては、『ためらい』が言葉になっていた初めての本です。」(読者の大庭さんから)

こういう感想はうれしい。
というのは、私は「ふつうの市井のひとのふつうの感覚」のもつ批評性を信じているからである。
「それって、ちょっとおかしいくない? 理屈はそうかもしれないけど、なんか腑に落ちないよ」という身体的な批評性を私は大事にしている。
その「ひっかかり」が何に由来するのか、その抵抗感には何らかの汎通的な根拠があることなのか。それについてごちゃごちゃ考えている私の思考のプロセスそのものを言語化すること。
私がやっているのは、それだけのことである。
そこにはほとんど「オリジナル」な要素はない。
だって、そのような懐疑をも含めて、私の思考や感受性はまるごと歴史的に規定されているからである。
私はおよそ「オリジナリティ」と縁遠い人間である。
私の読む本も、聴く音楽も、愛でる芸術作品も、美味しく思う料理も、お洒落に感じるファッションも、乗りたい車も、尊敬する哲学者も、一つとして「私だけ」のものなんかない。すべてはしかるべきサイズの「マーケット」で、しかるべき代価を支払えば、どなたでも手に入れることのできる「定番」グッズである。
私は頭からしっぽまで「ふつうのひと」である。
だから、「ふつうの人」である私の偏見や好悪を腑分けすれば、私にそのように「感じさせ」「思考することを強いている」汎通的な構造が逆照されるはずである、というふうに私は推論するのである。
もしも、「私はかわりもんである」という前提から出発し、「トラウマ」とか「階級性」とか「エスニシティ」とかによる説明をぜんぶ排除した場合、そこからは、「私の偏見や好悪はオリジナルなものであって、それ以上の分析や解釈を受けつけない」という終点に直行するほかない。
「いやなものはいやなの」
と言われたら、「あ、そう」としか言いようがない。
しかし、汎通性を持たない好悪や嗜癖は批評性を獲得できない、と私は思う。
というわけで、(長い話になってしまってすまない)私は「ふつうの人」であり、「著者に会いたい」と言われるのはありがたいが、会ってもあまり面白くないですよ。

ためらいの倫理学