4月12日

2001-04-12 jeudi

鈴木晶先生のホームページに小谷真理が山形浩生を名誉毀損で訴えた裁判の話が出ていた。
なかなか興味深い裁判である。
鈴木先生の解説をそのままペーストさせていただくと。

「どういう裁判かというと、山形氏がある本に、おふざけで『小谷真理というのは巽孝之(小谷さんのご主人)のペンネームなのだ』と書いたのだ。それで小谷さんが名誉毀損で告訴したのである。
ジョークというのは、面白くなくてはならない。『小谷真理の文章は旦那さんの文章とよく似ているねえ』と書いたのでは面白くないから、『じつは二人は同一人物なのだ』というジョークを書いたのであろう。たぶん書いた本人は『ふふ、われながら、なかなか気の利いたジョークだ』とご満悦だったにちがいない。小谷さんが読んだとしても、『笑って許して』くれると思ったのだろう。でも、それは甘かった。
ネタにされた小谷さんは『笑ってすませられる問題ではない』と思った。これもよく理解できる。自分の名前がご主人のペンネームだと言われてしまったということは、つまり自分の存在を抹殺されてしまったわけである。笑い事では済まされない。」

興味深い裁判だ、というのは、実は私にはどうしてこの人が「笑い事で済ませて」くれなかったのか、よく分からなかったからである。
人はどういう場合に、自分の名が誰かのペンネームだと言われることが「自分の存在の否定である」というふうに感じるのであろうか。
ちょっと、それを考えてみよう。
もし私が「内田樹というのは、エマニュエル・レヴィナスのペンネームだ」と言われたら、どう感じるであろうか?
私は欣喜雀躍手の舞足の踏むところを知らぬであろう。
あるいは「内田樹というのは、橋本治のペンネームである」でもいい。
私は決して、「名誉を毀損された」というふうにとらないであろう。
なぜか。
だって、私より「才能のある人間」と同一視された、ということは、私の書き物にもけっこう「みどころ」がある、ということだからだ。
私が怒るとしたら、それは「私よりバカなやつ」と同一視された場合だけである。
その場合であれば、私は「自分の存在が否定された」と思うだろう。
小谷真理さんが巽孝之さんを「自分よりはるかに才能のある人」と思って畏敬していた場合、彼女は名誉を毀損されたと思ったであろうか。
考えてみたが、よく分からない。よその夫婦の話だからね。わかんないよ。
ただ、なんとなく、夫のことを深く畏敬していた場合、夫と自分が同一視されたことが「名誉毀損」に当たる、というふうな言葉使いは出てこないのではないか、という気がする。
まあ、いまの世の中で、夫のことを畏敬している妻などというものはほとんど「佐渡の朱鷺」くらいに珍しい生物だから、小谷さんがそうでなくても、別に不思議はない。
だが、逆の場合はどうであろう。
「巽孝之というのは小谷真理のペンネームである」と書かれた場合、彼女は名誉毀損で訴え出るのであろうか。
そういうことはしなさそうな気がする。
というのは、その場合、「小谷真理」は「小谷真理」名義と「巽孝之」名義の双方のテクストの著者として認定されるわけだから、その存在は単に同一視されたのではなく、ちゃんと固有名として(オーヴァーレイト気味に)認知されたことになるからである。
オーヴァーレイトされて怒る人はあまりいない。
ところで、その場合、「存在を消された」巽さんはどう出たであろうか。
やはり名誉毀損で訴え出ただろうか。
なんとなく「ま、いいんじゃないの。はは。なんだよ、おれはヴァーチャル・キャラクターか。ははは」というようななげやりな態度をとったのではないか、というような気がする。
「気がする」だけですけど。
その場合、巽さんの「ははは」を支えるのは何なのであろう?
彼が自分の社会的プレスティージは「たちのわるいジョーク」くらいではまるで「毀損」されないほどの堅牢である、と信じることのできる根拠は何なのであろう?
おそらくここに「性差」の問題が出てくるのであろう。
ややこしい問題である。
しかし、これ以上書くと、関係各方面から罵声が寄せられそうなので、話題を変えよう。
一般論をしよう。
「夫」とセットで扱われること、「・・・さんの奥さん」と呼ばれたりすることに、「自立した女性としての存在」を否定されたと感じて、名誉を毀損されたと受け取る女性は多い。(だから「ミズ」というような敬称が使われたり、夫婦別姓が行われたりするのである。)
自分は誰かの「付属物」ではない。私は私だ。
なるほど。そうだね。
しかし、私はときどき「誰かの付属物」として呼称されることがあり、それは場合によっては、私の社会的立場を示す上でたいへん有用な情報を含んでいる。
私は「るんちゃんのおとうさん」と呼ばれることがある。(私はるんちゃんの通っていた保育園の「保護者代表」として創立以来はじめて「答辞を読んだ父親」であるが、父母たちはひとりとして私のほんとうの名前をしらなかった。)
「卓爾さんとこの次男さん」(卓爾というのは私の父親の名前である)というような紹介のされかたを親族のあいだでされることもある。
「多田宏先生の弟子」というのは武道界においては私が自分の名前をなのるより、はるかに武道家としての私について多くの情報を伝える。
「レヴィナス先生の弟子」という自称もしているが、もちろんこれも「虎の威を借る」タイプの名乗りの一種である。
そのほか、さまざまな場面で、私は固有名よりもむしろ、「・・・の・・・」という帰属関係を称している。
その方が「話が速い」ことが多いからである。
だから、話がそれで速く片づくなら、どう呼ばれようと、私はまるで構わない。
しかし、私のかつての妻は私の知人たちから「ウチダくんの奥さん」と呼ばれるとこまめに訂正を求めた。しばしばその訂正要求は怒気をふくんでいた。

「私にはちゃんとした名前があるんだから、それを呼んでください!」

でも、私が彼女の友人たちから「サエコさんのだんなさん」と呼ばれるときには一度も訂正をもとめたことがなかった。
どうしてなのであろう。
よく分からない。まあ、すんでしまったことだ。どうでもいいや。
とにかく世の中には「配偶者とユニットで扱われること」「配偶者との帰属関係で呼称されること」に対して激しい怒りを感じる女性が多いということ、その怒りには歴史的正統性があるという主張がひろく受け容れられていること、これは事実である。
そのような怒りは当然にも「夫婦以外のひとびと」に向けられているわけであるが、その怒りでいちばん深く傷ついているのは、実は「となりにいる人」だ、ということにご本人は無自覚であることが多いということ、これもまた事実である。