4月10日

2001-04-10 mardi

いよいよ新学期が始まった。
初日は大学院、フランス語初級、専攻ゼミ(I)。
大学院への新入生たちと、大学への新入生たちと、ゼミへの新入生たちを迎える。
いずれも「期待に胸をふくらませて」いる若い人たちであり、最初の授業は、彼女たちにとってしばしばその後の教育期間を通じての態度を決定する「刷り込み」の機会である。
ここで「なんだ、大学ってくだらない」と思われたら一巻の終わりである。
それは私一人の範囲を超えて、他のすべての先生たちの授業にまで色濃く批判的な気分を投げかけてしまう。ひいては、大学の声望を損ない、志願者の減少をもたらし、大学の危機を招来しかねないのである。
というわけで、今日はねじをきりきりと巻き上げて、ハイテンションで教場に臨む。気分はマジソン・スクエア・ガーデンの袖から舞台に駆け上がるミック・ジャガーの「つもり」である。

大学院は「戦う身体・舞う身体」。
武道的な身体技法については、私ひとりでも話したいことが50時間分くらいあるし、鬼木先生をお呼びすれば話は尽きないから、ネタに不足はしないのであるが、舞踊についてはほとんど何も知らない。
しかし、「秘密兵器」として、鈴木晶先生と小林昌廣先生という「舞踊」系に強いおともだちがいるので、彼らに「ゲストスピーカー」として来て頂いて、バレエや舞踏についてはお話しいただくことができる。これで一安心。
というわけで、「助っ人」が控えているので、気楽なものである。
今日はイントロダクションとして「身体論の基礎」について話す。
「基礎」と言ってもべつにきちんと体系づけた知見があるわけではない。
「お、明日から授業か。しまった、何も準備していない。」
というので、昨日の晩にカティサークを呑みながら、あわてて打ったのである。
しかし、呑みながら書いたにしては、なかなか面白いので、再録することにした。

1・身体技法にはいくつものシステムがある。宗教儀礼のための、労働のための、遊戯のための、闘争のための、社会的態度や社会集団への帰属を示す身体記号としての、そして表象芸術としての・・・
あえて区分を試みれば、身体が単純にその使用価値に即して功利的に利用される場合と、身体運用が差別化の指標として使われる場合に区分されるだろう。
あるいは「モノとしての身体」と「記号としての身体」の区分と言い換えてもいい。

2・身体をその使用価値に即して利用する局面として私たちが思いつくのは、「戦争」と「売春」と「カニバリズム」である。
そこで、身体は「消耗品」として、「代替可能なもの」として、「消費」される。
私たちはそれを「身体のモノ的使用」と名づける。

3・その対極に身体の「象徴価値」が主であるような局面というものも存在する。
それは身体「そのもの」ではなく、それと他の身体(運用)とは、あるシステムのうちでどのように示差的か、という問いがきわだって前景化するような局面である。
身体そのものではなく、ある身体と別の身体の「差異」が第一次的に重要であるような局面である。
私たちはそれを「身体の記号的使用」と名づける。

4・宗教儀礼や礼法や日常の社会的な場で要求される規範的な身体操作は「記号的」な身体運用である。
そのうちでもっとも身近なのは、ある種の社会集団への帰属を示す身体運用である。
ある社会集団に固有の身体の形態や、身体操作の作法が存在する。(ヤクザにはヤクザの、営業マンには営業マンの、おばさんにはおばさんの)
それはソシオレクト(社会的方言)や、モードと同じく「差異化」の機能のためのものである。

5・私たちがしつけや学校教育をつうじて受ける身体運用の訓練は、「身体そのもの」の器質的な強化や効率化だけではなく、むしろ「身体の記号的な使用」の習得、つまり「社会的身体」の形成をめざしている。

6・身体訓練の最初は「排便のしつけ」である。
なぜ、人間はあらゆる身体訓練の最初に「排便のしつけ」を行うのか?
理由は簡単である。「排便のしつけ」は「自我」と「自我の一部であるが、自我ならざるもの」を分節する最初の営みだからである。
私と私の排泄した便は「べつもの」である、という認識を媒介として、幼児は「自我/非自我」「コスモス/カオス」「内部/外部」という「世界の分節」を了解することになる。

7・汗、髪の毛、唾、贅肉、体臭といったものはすべて「自我と非自我」、「身体と非身体」の臨界に出現するものである。これらに私たちは異常な嫌悪感を示すのは、それらが即自的に「不潔である」からではない。(私たちはそれが身体から剥離する直前までそれらを「汚い」というふうには意識していない。それらが「汚い」ものとして認識されるのは、質的な変化によってではなく、それがもはや「自我」に属さないものだからである。それらが「境界の指標」だからである。
境界の指標の機能は一つしかない。それは「過剰に意識される」ということである。

8・ダニエル・ブーン、ポール・バニヤン、デビー・クロケットなどアメリカ開拓時代の伝説的巨人たちは、単に物理的に巨大であっただけでなく、けたはずれの「パーソナルスペース」を保持していた。ダニエル・ブーンは彼のミシシッピの家から100マイル離れたところに「ヤンキー」がやってきたとき、「人が多すぎる」といってさらに奥地に逃げてしまった。つまり、ブーンのパーソナルスペースは半径100マイルの円だったのである。

9・「体臭の届く範囲=パーソナルスペース」と考えると、私たちが人を罵倒するときに「臭い」という言い方をする意味が理解できる。それは物理的に臭覚が刺激されているのではなく、「おまえはおまえに割り当てられたパーソナルスペースからはみだしている」という、社会的態度の「侵犯性」に対する非難なのである。

10・だとすると「デオドラント」社会がなにを目指しているのかも自明である。それは「パーソナルスペースの縮減」を私たちに要求しているのである。
「もっと自我の領域を狭隘にしろ」と要求しているのである。

11・それは贅肉が敵視される「ダイエット社会」にも通じている。「贅肉」とはその語義からして「自我の一部として認知されなくなった身体部位」のことである。つまり、贅肉は、確かに物理的には私の一部を構成しているにもかかわらず、文化的には「非自我」として、私の「外部」に(脱落した髪の毛や、糞便や、唾や、垢や、体臭と同じように)カテゴライズされているのである。

12・「身体そのもの」というのは即自的には存在しない。というのは、身体と非身体の境界は歴史的、場所的な擬制だからである。

13・かかる擬制に基づいて、私たちは世界を分節している。「身体的に分節されないもの」は、私たちの世界経験に「事象」としては認識されない。そして、その分節の原基となる「身体」は物理的実在ではなく、「歴史的概念」なのである。

14・「肩凝り」というのは、日本独自の「病気」であるとは小林昌廣先生の研究の結論である。
それは二つのことを意味している。
一つは「肩が凝る」という病識が有意でない社会集団では、「肩凝り」というものは出現しない、ということ。(もし「肩」という身体部位を言語的に分節しない社会があれば、その社会には「肩凝り」は存在しない。それと同じ身体的苦痛は別の表現をとるだろう。「首が痛い」とか「背中が痛い」とか)
第二に、「肩凝り」は「身体的痛み」にとどまらず、「社会的な圧力を受けて、それに耐えている自分の立場の苦しさ」を表明することができる。
それは、身体的な痛みの表白であると同時に、「過剰な社会的責任を負わされていること」への不満の表明である。だから「ああ、肩が凝った」という発言は、「たいへんですね」「ご苦労様」といった、「いたわりと感謝のリアクション」を暗黙のうちに要求しており、期待されているリアクションは「じゃあ、整形外科に行ったら?」ではない。

15・日本人は「肩に重荷を負う」。だから、「重荷」の重圧へひとびとの意識を集中させるためには「肩が凝っている」という病識の表明は有意である。
アメリカ人は「背中に重荷を負う」(carry a burden on the back)。だから、彼らは社会的重圧に耐えているとき「背中が折れる」(break my back) と言う。

16・キューバ危機のとき、ニュース映画で、私は戦争で受けた背中の古傷が痛みだして、杖につかまって歩いているケネディ大統領がヨットから下りてくる映像を見た記憶がある。
私はそれを単に「痛そうだ」としか思わなかったが、アメリカの視聴者たちは、大統領がその過大な政治的責任に「耐えかねている」というメッセージをおそらくはその画面から受け取り、単に「痛そうだ」と思うだけでなく、「がんばれ大統領」という励ましのメッセージを送ったのではないか。

というところまでしゃべってところで時間になってしまった。
来週はどうなるのであろう。(まだ分からない)